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自己紹介|いじめを受けた私がカウンセラーになった話Part3

みなさん、こんにちは!
Hiromiです!今日も私の記事の訪れてくれてありがとうございます!
たくさんの「スキ」をいただいてとっても嬉しいです♡

前回のPart2はボリューム満点で読むのが大変でしたよね…
もっとわかりやすく書けるよう努力するので今後ともよろしくお願いいたします!

それではPart3スタートです!!
Part1、Part2はこちらから☟


人生を狂わす高校生活

親友が放った言葉

親友を無理やり引っ張り話そうとした私に彼女は…
「なんなの?お前と話すことなんてないんだけど。気持ち悪いから話しかけないで。お前の事なんて大嫌いだし、仲良くしてた自分が恥ずかしいわ。親友だなんて思ったことないから勘違いするな。」
そう言い放ちB子の元へ走っていきました。
何がどうなっているのか私には全くわかりませんでした。でも、私の知らないところで何か起きているのは分かりました。

毎日一緒に登下校していた2人

昨日の夜、突然「嫌い」と言われた真相を確かめるべく私は親友との話が終わり急いで2人の元へ行きました。そこで「なぜ”嫌い”になったのか、昨日の朝まで仲良くしていたのになぜ突然そんなことを言うのか」と聞きました。2人は少し黙ってから言いました。
「私たちはもうお前とは関わりたくない。全部お前が悪いだろ。きもいし、ウザイから消えろよ(笑)そもそも、最初から友達じゃないし、行き帰りだってお前が勝手についてきてただけで迷惑だったんだよね。邪魔だったし、こっちがずっと合わせてあげてたんだよ。1人で友達って思ってて惨めだね。可哀そう。ずっと付きまとわれて迷惑って思ってたの。」
そう言い残し、2人は笑いながら去っていきました。
クラスでも普通に話していた子から無視をされ、誰に理由を聞いても、私が何をしたのかを聞いても「言えない。お前が悪い。」と。誰一人として理由を言ってくれませんでした。私は何もわからず、なにも知らない状態で学年全員から無視をされ、悪口を言われ、ネットにはあることないこと書かれたのです。

不登校・拒食症・引きこもりの日々

その日から私は学校に行くことができなくなりました。
なにか私が悪いことをしたなら、反省もできるし、勘違いされているなら弁明をさせてほしいと思っていましたが、話を聞いてくれる人はいませんでした。誰にも話せず、父に迷惑をかけたくない思いから制服を着て学校に向かうフリをしていました。父が仕事に出かけた時間を見計らって家に戻っていました。ですがそれも長くは続かず、私は家の外へ出ることすらできなくなりました。ご飯も喉を通らず、制服を見ると呼吸が荒くなり、手が震え、泣くことしかできなくなっていました。父はなぜあんなに楽しそうに学校に行っていた私が突然学校に行かなくなったのか、とても心配していました。私は父に学校で起きている事を話しました。ですが父は「学校に行きなさい」というだけ。「そんなの気にしなければいい。逃げたら負けを認めたのと一緒。悪いことしてないなら堂々としてればいい。」というだけでした。私は「家でも自分の居場所がない」そう思ったのです。そして父との関係はどんどん悪化していきました。どうして優しい言葉をかけてくれないのか、どうして私を理解してくれないのか。もう父は私のことが邪魔なのか。そう思っていました。そこで母に助けを求め、母の協力で通信高校に転校しました。

学校は助けてくれない

転校手続きのため、何回か担任とも話しましたが担任はいじめを認めず、”ただの思春期の揉め事”と言っていました。そこで私は学校が世界で”一番嫌いな場所”になりました。学校に助けを求めても、助けはおろかあなたが悪いと責めるばかり。こんな学校を選んだ私がバカだった。そう思う事しかできず、感情を無にして転校手続きを進めました。

転校後も不登校になる

転校した私は友達という関係を信じていませんでした。
「人間は裏切る生き物だ」
そう感じていた私は転校先でも友達を作ることをせず、学校にも行かず、単位テストの勉強と大学受験の勉強を独自でやっていました。
友達もいない、自己肯定感もない、誰も信用できない。そんな私は周りからどんどん孤立していきました。

人生を変えた出会い

周りからも孤立し、感情を表に出すことも、人と関りを持とうとすることもなくなった私を見て母はとても心配していました。
そんな時、母が私を海外旅行へ連れ出してくれたのです。
母の住む”インドネシア・バリ島”を訪れたとき、私の人生は大きく変わりました。

なんて狭い世界で生きていたのか

私は日本とは全く違う”世界”を見たとき、なんて小さな世界に居たんだろうと思いました。当時の私は”学校がすべて”であり、”学校が世界”だったので、それを失くした私には”生きている意味がない”と思っていました。
ですが、「世界は広かった」のです。世界には何通りもの生き方があり、知らないことで満ちている。私は自分が世界で一番不幸で可哀そうだと思っていましたが、世界に比べれば”私は幸せ者”だったことに気が付いたのです。
私よりもつらく大変な思いをしている人たちが世界には溢れている。きっと私みたいに自分の居場所がない、誰にも話せない、誰も味方になってくれない。と狭い世界で苦しんでいる人たちがたくさんいると思いました。そこで私は一人でも多くの人に、私と同じように悩み、辛い日々を過ごしている人に「私だけは味方になってあげたい」と思いから、カウンセラーになりました。

インドネシアで日本語教師・ボランティア活動に参加

インドネシアで過ごしている間、私は母が立ち上げに関わった日本語学校で日本語の講師としてボランティアをしていました。色々な境遇の生徒と関わる中で私がすべきことが見えた気がします。生徒たちはそれぞれ”夢”をもって日本語を学び、日本に働きに行きたいと思っている。私はそんな純粋な気持ちを全力でサポートしたくなりました。ですが、日本語を学びたくても色々な事情により学べない子がたくさんいるのが事実です。そこで無料の日本語教室へボランティアにも行きました。今でも私に大きな影響をくれた日本語学校のサポーターとして関わっています。

私のやるべきこと

私は「海外」に出会うことで、自分がどれだけちっぽけだったか実感しました。そして自分のやるべきことが「みんなのサポーターになる、味方になる」ことだと見つけました。私ができることを最大限に活かした職業が「カウンセラー」だったのです。
私は一人でも多くの人のサポーターになりたい。
私のような思いをして苦しんでいる人の味方になりたい。

自分の可能性は外側にあることを知ってほしい。
世界は思っているよりも広く、そして近いことを知ってほしい。

そのような思いでこの活動を始めました。
私は長年「自分は何者なのか?」と自己理解を深めてきました。自己理解をすることは自己肯定感UPにもつながり、いじめられ自己肯定感が底辺だった私が今では自分のことを最大に愛することができています。
この経験がみなさまのお力になれると思っています。

最後に

私は自分が”大嫌い”でした。
自分には才能なんてない、やりたいことなんてない、生きていたくない。
いじめや精神病を経験し、そう思ってずっと過ごしてきました。
他人からしたら「小さなこと」かもしれません。悩む必要がないこと、大したことない事だと思われるかもしれません。ですが、当時の私には本当に辛く、人生のどん底に突き落とされた気分でした。何度も生きていたくない、消えたい、と思いました。
ですが、今は「できるだけ長く生きたい」です。たくさんの国に行き、知らないこと、新しいことを経験し吸収したいと思っています。
私のこの辛い経験や学びは神様がくれた試練で、みなさんの味方になる為の準備だったのだと思います。私の人生は私のような思いをしている方のサポーターになる、自己理解の大切さを広める為にあります。

あとがき

長くなりましたが以上が私がカウンセラーになった全てです。
自己紹介が長くてすみません…。
最後まで読んでくれたみなさま、ありがとうございました!
頑張って!やいいなと思ってくれたら「スキ」を押してくれると励みになります!
今回初めてのnoteで分かりやすくまとめるのがとても大変でした…。

少しでも私の思いを知ってくれたらうれしいです!
今後はみなさまの自己理解へのお手伝いやほっと一息つけるような記事を書いていくので楽しみに待っていただけると幸いです!

本当に最後までお付き合いいただきありがとうございました!

バリ島での様子↑

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