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自己紹介|いじめを受けた私がカウンセラーになった話Part1

みなさん、はじめまして!
心理カウンセラーのHiromiです。
私の自己紹介ページにご訪問いただきありがとうございます!

いじめを受け、引きこもりになり拒食症、不安障害など様々な精神病を患った私が今カウンセラーとして活動できている経緯や方法などお話できたらと思っています。
お伝えしたいことをすべて書くととても長くなってしまうので、いくつかのパートに分けて書いていこうを思います。

少しでもみなさんのお力になり、心がほっと一息つける場所を目指し活動しています。

初めてのnoteで緊張していますが、最後まで温かく見守ってくれると嬉しいです!


順風満帆な日々

私は神奈川県横浜市で生まれ育ちました。
母、父、5歳上の姉と4人家族で幸せに育ちました。両親は私という人間をとても尊重し、私がやりたいと言ったことはやらせてくれました。両親の意向で小学校はお受験を経験し私立の小学校に入学しました。受験がなくエスカレーター式で高校まで行くことができるため、両親は私のことを思い私立学校に入学させてくれました。
小学校では成績もよく、スポーツの分野でも一番上の評価を取るような生徒でした。「母に褒められたい」という一心で勉強やスポーツに励みました。
友達関係も良好でいわゆるスクールカーストでは常に中心のグループにいました。グループ内外で多少揉めることはあってもそこまで友情が壊れるということもなく、そのまま中学校に進みました。

不安定な中学校時代・母との関係

中学校に進学した私にある大きな変化がありました。

両親の不仲・別居

以前から母は仕事が忙しく夜遅く帰ってくることが多くなり、私たち姉妹と関わらなくなりました。母は仕事のストレスからなのか周りに強く当たることが多くなり父とも喧嘩が絶えず不穏な空気がずっと家に漂っていました。
私は昔から人の考えている事や空気に敏感で人一倍「察する」ということが得意でした。私は家族がとても好きだったので家では不穏な空気を察すると「うまく立ち回る」ということを覚えました。自分の感情を出さず、物事がうまく進むよう、誰も怒らず、不機嫌にならぬようにと家の中で立ち回っていました。ですが私の努力も実らず、母は祖母の介護という理由をつけ家を出ていきました。その後、祖母が亡くなり私は母が帰ってくるのだと喜びましたが母が実家に帰ってくることはありませんでした。

母との同居

私は幼いながら「母はもうここには帰ってこない」と悟りました。
そして、今自分がすべき行動は「離婚させない事」という結論に至りました。ですがこれは今思うと自分勝手な結論だったと思っています。
両親が大好きな幼き私は絶対に離婚などしてほしくなかったのです。その恐怖から毎晩一人のベットで泣いていました。そして導き出した答えは「母と暮らす」でした。姉は父と実家に暮らすと言っていました。私は母が一人で可哀そうだと言い、母と暮らすようになりました。ですが母との暮らしも長くは続かず、母と折り合いが悪く家出をするように実家に戻りました。このまま母と暮らしていては母のことが嫌いになってしまうと思ったのです。

母と音信不通に

実家に戻った私は母に悪いことをしたと後悔の念で押しつぶされそうになっていました。今でもあの時の母の気持ちを考えると涙があふれてきます。私が母と暮らすと言ったときの嬉しそうな母の顔が脳裏に焼き付いて離れず、私が母がいない時間を見計らい家出し実家に戻ったことを知った母はどんな気持ちだったんだろう、帰ってきたら娘がいないという事実にどう向き合ったのか。この文章を書いている今も思い出すと涙が止まりません。その後、母とは1年以上も音信不通になりました。私は罪悪感のあまり母に会うのがとても怖かったのです。何を言われるのか、嫌われているのではないかと思うと胸が苦しく過呼吸になってしまう一種のパニック障害を起こしました。
その後ほどなくして私の大好きな母と父は離婚しました。その後、学校に行っても保健室にこもるようになり、得意だった勉強に身が入らず成績は落ちていきました。

母との再会

母と音信不通になり1年が過ぎたころ、通っていた中学校で授業参観がありました。両親が離婚したこと、母との関係のことは友達に言えるはずもなく学校では今まで通りの自分を演じていました。授業参観日のお知らせは学校から配布されていましたが、離婚した父は仕事で忙しく授業参観に来ている暇はないと思いそのまま捨てていました。ですが、授業参観日に私の「親御さん」として現れた人物がいました。それは1年以上連絡を取っていない「母」でした。教室後方に入ってきた人物が「母」だと分かった時、胸が締め付けられ、息ができないような感覚に陥りました。そうパニック障害です。ですが、周りは母との関係を知らない。今ここでパニックを起こせば必ず噂が回ってしまうと思い、どうにか自分で呼吸を整え何食わぬ顔をして授業を終えました。幸いにも次の授業は移動教室だったので、私は母から逃げるように教室を出て次の授業の準備をしましたが逃げられる訳もなく母に「ひろみさん、ひさしぶりね」と声をかけられました。私は数秒間振り向くことができず、涙があふれてくるのを感じました。そして決死の思いで振り向き1年以上ぶりに母の顔を見ました。その時の母のまなざしには怒りなどはなく、優しさであふれていました。
ですが私は母と話すことに恐怖を感じていたので「次、移動教室だから…」と言い放ちその場を立ち去りました。振り向くこともせず、今にもこぼれそうな涙をこらえ、ただただ次の教室へ小走りで向かいました。

保健室で聞いた母が担任に言い残した言葉

私は移動教室が終わり、自分の教室へ戻っていました。
さっきの出来事を思い出すと、どうしても涙があふれそうで具合が悪いと友達に伝え保健室へ向かいました。
保健室の先生は自分をさらけ出して話せる唯一の人でした。
前々から何かあるたびに保健室に行き、話を聞いてもらっていました。自分を他人に出せない私が唯一信頼して話せる相手だったので今思うと「依存」していたんだと思います。
私が保健室に行くと先生が…
「来ると思っていたよ」
と言いました。先生は母が来たことを知っているようでした。なぜ知っているのか疑問に思いました。当時の担任が話したのだろうと思いましたが、実は母から担任と保健室の先生とお話をしたいと言ったそうです。
母は先生方に私への思いを語っていたのです。
「ご迷惑をおかけしてすみません…。あの子とは……(続く)」


あとがき

みなさま最後までご拝読いただきありがとうございます。
初めてのnoteで至らぬ点があったと思いますが楽しんでいただけたら幸いです。

今回は母との再会まで!
私の過去はまだまだ色々な辛いことで溢れており1回で書くには長すぎるんです…笑
このあとどんどん更新いたしますので、最後までご愛読していただけると嬉しいです。

今後ともよろしくお願いします!


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