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フォントはドーピングである。

ワープロが登場したとき、自分の言葉が美しいフォントで印刷されることにみんな感動したという話を聞いたことがある。85年生まれなんでワープロに触ったのは小学生だったけど、わかる気がする。

内容の未完成をビジュアルでごまかす、って、ついついやりがちだよね、とか、見た目ができてると、できてる気になっちゃうよね、とかそういう話。

映像の企画でもなんでも、はじまりは企画コンテ企画書だ。
そこまでディティールをつめるまえに、つめてたとしてもそこまでは見せずに、「要するにこういうことします」というのを端的に伝えるシート。

アイデアがまだふわっとしてるなら、もしくはふわっとした状態で握って
あとからつめていくつもりなら、この段階であまり見栄えがいいものをつくると自分が"できた気"になって、中身をつめるのを怠りがちだ(そんなバカは僕だけかもしれませんが)。

手書きで要点とささっとしたイラストかなんかでまとめたメモは、
雑かもしれないけど内容の完成度と見た目の完成度がマッチしている。

「細かいところはこれからつめるんです感」がかもしだされているので、
伝える相手との了承もそのふわっと感で握ることができる。と、僕は思う。

僕もふだんの仕事でやりがちなのだが、
このアイデアの出発というかまだふわっとしてる段階で、
それっぽい写真をネットから拾ってきて、イラレで配置して、
ヒラギノ角ゴのW1でひとこと添えて企画書をつくると、
なんとなくいいものに見えてきてしまう
し、なんかできた気になってしまう。
「ドーピングしてるなー俺…」と思う。

ビジネスとしてのプレゼンでは確かに体裁を整えないと
「こんな雑なメモで金出すやつがどこにおるんじゃい」っていう失礼になってしまうかもしれないけど、うちうちでやる企画打ちのときにはなるべく手書きで、というかアイデアの完成度に見合った見た目で出すようにこころがけている。

と言いたいところだがごく最近は企画書をイラレでつくりまくっているので、猛省である。

ビジュアルが整うとできた気になる、というのは映像のルックとかにもたぶん言えることで、GIFの数秒~CMの15秒~WEBムービーの2分まで、
MVなら1曲分は確かに映像がよければ、中身がスカスカでも"もつ"。
あー綺麗だったー、と思わせることで逃げ切れる。言わば"動く静止画"だ。

もっとも、オンラインにのると最初の5秒でつかまないと、とか言われてるから、もたなくなってきてるのかもしれないけど。

つくってる側からすると、"もつ"と勘違いしがちなのだ。
つくってる側は2分の素晴らしい映像美でドヤっと世に出したものが、いち観客、視聴者がなんの思い入れもなく見ると2秒で飽きて閉じられることもある。

単に美しいものを2分見たい、という気分のときもあるし、そういうときは見てくれるんだろうけど、映像では基本的に観客が見るのは内容だ。中身がスカスカだと、観客はもたない。
映画はまさにそうだ。映像はキレイだけど話はクソ、とかCGはすごいけど話はクソ、とかいう感想はよく聞く。(そういう意味じゃ総合芸術と言ってるわりにレビューはほんとお話についてがほとんどだな…ちなみにお話がいいと俳優が"いい芝居してる"と言われやすいです。俳優がダメとか言われてるときはそもそもお話がつまんないときが多いです。私見ですが)

「映像がキレイだった」という感想は難しいところで、内容に褒めるところがなかった説もあるが、内容はまぁもってはいたけど特筆すべきものはなかった、けどまぁ映像はキレイだったな、と思われたかだ。

映像は安っぽいけどめちゃめちゃおもしろかった、これはすごい。ブサメンなのにめちゃくちゃモテるみたいなすごさだ。

そういう意味では、作り手だけでなく観客側もある程度は見た目に惑わされる。
内容勝負の映像において、観客がその内容を観る前の段階がそうだ。

映像がすごいと、中身もすごいように期待してしまうし、
逆に映像が安っぽいと、中身もよくないようにどうしても見えてしまう

ハリウッド映画が人を動員しながらもけっこうな頻度でクソクソ言われるのはこのせいだ。
どんなにがっかりしても、また新しい作品のすっげー予告編やビジュアルを見ると、内容もそれ相応にすっげーいいものだと本能的に期待して見に行ってしまう。

逆もまたしかりで、その面白い内容をうまく伝える、ひきつける予告編があったり、すでに見た人たちからのものすごい評判がない限り、ビジュアルが安いとあんまし観る気はおこらないだろう。

ここで冒頭で述べた"ビジュアルで内容がスカスカなのをごまかすべきでない"的な話と逆の考えが浮かぶ。

"内容が素晴らしいならビジュアルに手を抜くな"

ということだ。

もちろんビジュアルは金がかかる。カメラ、照明、カラコレ、合成、やればやるほどかかる。
でも内容がよければビジュアルは安っぽくてもなんとか…!ってのは、やむを得ないときが100%なのは承知だけど、あまりにもったいない。

これも今年参加させてもらった、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で学んだことのひとつだ。
ゆうばりで観たたくさんのインディペンデント映画はそれぞれめちゃくちゃおもしろかった。普通に生きてたら出会わない、ユナイテッド・シネマでは観れない傑作が溢れていた。

しかしユナイテッド・シネマでポスターがアベンジャーズと並んでて、2時間空き時間があったら、すいません、僕はたぶんアベンジャーズを観てしまう(アベンジャーズが2時間以上あるのは無視)。

ポスターのビジュアルだけアベンジャーズやオーシャンズ11にならってもだめだ。
あのへんの出演者集合ポージングポスターは、それがみんな知ってるスターだから成立してる

みんな知ってるわけじゃない出演者を文脈なくポージングさせたポスターは
(それぞれ素晴らしい芝居をしてたとしても)見知らぬ他人を劇場まで引っ張ることはできないと思う。出演者を集合させてポージングしたうえで、内容の魅力が正しく伝わるポスターとして完成していれば別だけど、バランスは難しい。ちなみに観終わって超おもしろかったかどうかは別、観る気になるかどうかの話です。余計なお世話だ!という声が聞こえますね。すんません。

オーシャンズ11は内容よりも出演者がウリだから、出演者推しのポスターになる。観終わって「話はよくわからんかったけどなんかスターがいっぱい出てて豪華だったなー」でもセーフで、大事なのは提供できる、期待される価値(ウリ)とビジュアルが相関していることだ。

内容がウリなら、内容を正しく伝えるポスターにするべきなのだ。

他人の具体をあげると好き嫌いもあるしカドがたつので、自分の話にします。しかもポスターの話はここで終わって、企画書の話にもどります。

昨年制作した短編映画『東京彗星』の制作では、企画コンペで優勝して制作費はじゅうぶんすぎるほどいただけたのだが、調子に乗って僕が鼻息荒く考えたやりたいことが、いただいた金額の適正スケールを無視したものだった。

ドキュメンタリックにつくるという作品の性質もあって、全編iphoneで撮るという案もあったのだが、結局いいカメラとレンズを使うことにこだわった。プロデューサーのMさんすいません…。

もちろんiphoneのカメラはまぁまぁ性能いいので全然撮れるし、
全編iphoneで撮ったおもろい映画はたくさんあるのは知ってる。

僕がいいカメラとレンズにこだわった理由はこうだ。

"見た目がリッチじゃないと、見てももらえない"

自分がそうだったから。
見た目が安くても観てめちゃくちゃおもしろかった映画は超たくさんあるし、まじリスペクトしている。

しかし、自分の映画が世の中に出たときのことを客観的に想像してみたとき。いち観客として"この映画観るか観ないか"を考えたとき。

ルックが安いと、観ないと思った。
内容を死ぬほどがんばってめっちゃおもろいのができたとしても、
ルックで間口が狭まるのは絶対に避けなければならない。

内容めっちゃがんばりました、スケールでかい話です、ハリウッド映画をぶっ飛ばしにいってます、という態度でつくっても、そう見えばければ意味はない。あれ、なんか2週間前の記事とつながってくるな。

そういうわけで、撮影Jさんの提案もありARRI ALEXA miniに古いアナモレンズという、自主映画にしちゃだいぶ贅沢な布陣でやらせてもらった。

プロデューサーのMさん、撮影Jさんほんとありがとうございます。

完成した映画は満足いくルックで、逆に"映像の良さで内容のアラをごまかせた気になってないか俺"という怯えを僕にもたらしているのだが、それは今後観客のみなさんに判断してもらうしかない。

直近だとショートショートフィルムフェスティバル2018で6/24(日)に二子玉で上映があるので、よければ観てください。

この、"内容とビジュアルの相関度に注意する"、というのは
企画書の段階からこだわっっていた。

僕が制作費をいただいた企画コンペは、シナリオではなく企画書での応募と選考だ。内容を詳細につめた脚本ではなく、そのまえに端的にどういう映画か、を魅力的に伝えることがカギである。

企画書を出した頃はまさに脚本も書いてなかったし、アイデアとしてはざっくりとこういう映画を作りたい!というレベルだった。

アイデアの完成度そのままの見た目でつくると、表紙はこうだろう。

…読む気、します?
清書が間に合わなかったんだろうな、という感じだ。手抜きにも見える。
うちうちならいいけど、このコンペの場合は公開されて投票で優勝を争うのだ。敬意が感じられない。

じゃあ、ドーピングしよう。
Wordで打ってみる。

うん、なんか企画書っぽくはなっている。
アイデアの初期段階、ビジュアルではなく内容を言葉で説明しようとしてる感じはある。
正しい見た目かもしれない。
まぁ、今日これを読むという前提で前に座ってくれた人なら、読んでくれるかも。読む気がさらさらない人は、読んでくれないかもね。
工夫は感じられない。

で、僕が出した企画書の表紙はこれだ。

まぁアートディレクターじゃないんで、クソ美しくはないんですが。
手書きやWordよりはまだ読んでくれる人が多いはずだ。
…と思って出したのだから、よしとしてください。はい。

無事優勝できて(このビジュアルのおかげってわけではなくて周囲の人にめちゃくちゃ投票を呼びかけて、ほんとに多くに人が投票してくれたおかげで優勝できました)、制作できたからよかったけど、この時点ではハッタリもいいところである。

3番めの僕が出したやつは白状しましょう、
"ビジュアルによる内容へのドーピング"です

もちろん内容も一番おもろそうという自身を持って出してましたが、
これを出した時点での内容の完成度とは相関してないのは間違いない。

こんだけビジュアルがあって、美しめのフォントで書いていい感じにレイアウトしてあると、なんか"できてる気になる"し、"いいものに見えてくる"。(「え、別にいいものには全然見えないけど」という声が聞こえてきますね…無視します)

いちがいにそうは言えないけど、そういう効果はあっただろう。

与えられた条件のなかで最大限自分の企画に惹きつけるために
できるだけのことをしたまでのことだ。反省はしていない。

ただ内容の完成度に対してビジュアルドーピングしたことは自覚しておきたい

諸刃の剣でもあった。企画書のビジュアルで期待させた以上に完成品がよくなかったら、だいぶがっかりである。(実際、「がっかり」と僕に言った人もいる。どんとこーい!謝らないけど無視もしないぞ!)

Wordまたは手書きで出してつくってたら、完成品との落差で「思ったよりよかった」だったかもしれない。あ、感想ストラックアウト[裏]の話ですね。


でもWordまたは手書きの企画書じゃ、そもそも優勝できなかったかもしれない。まぁ、わかりません。ビジュアル関係ない説もおおいにあります。

ただWordや手書きで優勝してたとして、「ほらな!内容がよければみんなわかってくれるんだよ!」とドヤることだけはしなかっただろう。
ビジュアルもがんばって企画書つくって優勝したから、ビジュアルで得したかも…と恐縮してるだけだ。

ちなみにこの企画書はラスト1ページだけ、手書きにした。
それにしたって白紙に黒で書いたのを反転してルック整えてるので、
ドーピングといえばドーピングだけど。

このページだけはフォントで打つよりも手書きの方が"正しいルック"だと思ったからだ。

内容の説明はフォントで整理されてるほうがいいが、この映画をつくりたい個人的で生っぽい"想い"は、手書きの方が伝わると思った。あざといけど、それがベストだと思ったのだ。
フォントでドーピングしたうすい言葉や情報ではなく、心とつながってる身体、フィジカルを通した痕跡とその"感じ"が必要だと思った。

(ちなみにこの企画書はここで全ページまだ見れるっぽいです)

プレゼンを聞く人、投票する人、そして観客。みんな甘くない。
内容がよければわかってくれるとは、思わないことだ。

ワンパンマンは原作もおもろいし、左利きのエレンの原作も最高オブ最高。
でもデスノートをガモウさん(諸説あり)が描いてたらここまで売れたか?
的なことに近いかもしれない。

武田双雲が書いた「うんこ」はきっと笑えるとか、

バイオリン四重奏のサザエさんがめっちゃ笑っちゃうのとか、

村上春樹風に書く焼きそばのつくりかたのやつとか。

こうしてみると内容とルックのズレがポジティブに働くときもある。それは笑いだ。笑いはズレを楽しむ。ボケが常識からズレてて、ツッコミが正すことでズレが強調されて笑っちゃう(と個人的に思ってます)。

実生活関係である内容とルックのズレは、

イケメンが意外と話つまんないって思われて損するときあるとか、

ブサメンなのにめっちゃ優しくておもろくて超モテる人とか、

あと営業マンはいいスーツ着ろとか。


ぜんぶ一緒かもしれない。

内容とビジュアルやルック、師匠の言葉を借りると"中身""ガワ"
よくもわるくも、人はガワに引っ張られる。

ヘタウマがいいこともたくさんある。
中身がいいのにガワで機会損失する作品はもったいない。
ガワでごまかして中身がスカスカな作品は要成敗(おもしろければOK)。

その内容を届けたければ、ビジュアルも手を抜くな。これは自分に言ってます。
内容をごまかすためにビジュアルドーピングを使うのは、気をつけろ。これも自分に言ってます。

映像の話に広がってしまったけど、noteは言葉の場なので言葉や文字に例えてタイトルにしました。


フォントはドーピングである。誠実に、うまく使おう。

これも自分に言ってます。

この記事の言葉だって、こうしてnoteの美しいアートディレクションの中で、美しいフォントでドーピングしてもらってるから、ここまで読んでもらえたのかもしれないし。


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また映画つくりたいですなぁ。夢の途中です。