図1

がんばることよりも、「そう見える」ほうが大事である。

たとえば流川と花道が同じ実力だったとき、

ふたりを同じ評価にするべきか、花道の評価を高くするべきか。
同じ実力だったら花道の方が評価は高くなりますよねそりゃ。
でも流川をほっとかない方がいい気がする。

まったく同じ条件で比べることは不可能なのでなんともいえないことではあるが、出したパフォーマンスが同じでも、"がんばってるように見える方"を評価しがちだよね、という話。

これは僕がめっちゃそうで、最近めちゃくちゃ反省していることだ。

自分より経験が下の人と一緒になにかをするとき、
冷静にパフォーマンスのよしあしだけで判断できてない。

単純に、おとなしい人よりハキハキ返事する人の方がそれだけで自分の中での評価が高い。客観的にパフォーマンスを比べたわけじゃないのに。

僕が社会人になった10年前だったらまぁそれでもよかったんだろう。
自分もハキハキ返事して、一生懸命やってる感は過剰に分泌してふりまいてたし、それで「がんばってるじゃん」と言ってもらって得することも多かった。

もちろん、近くで、ずっと一緒にやってると、「あいつがんばってるけどダメだよな」ってバレてくる。

それでも遠くにいる人には一生懸命やってるシズルがあるだけで「がんばってるな」っていう評価は実際よりも長めにキープできてしまったりする。たぶん。

そうやってどのみちほんとの評価は定まってくるんだけど、
コミュニケーションの初期において、この"がんばってるじゃん"という
謎の基準で第一印象に確定ボタン押してしまう
と、ちょっとやっかいだ。
のちのちパフォーマンスを冷静に見てコミュニケーションの精度を高めていかなきゃいけないときに、この最初の"がんばってるじゃん度"にひっぱられる。

そもそも「がんばってる」って何だ???

自分が言われれば嬉しいし、人にも使いがちだけど。

がんばってるように見えてるかどうか。
一生懸命やってるシズル。
ベストを尽くしてる感じ。
そう見えてるかどうか。
やる気感。

そんなところか。

ベストを尽くしてるかどうかが「がんばってる度」だとすると、
ベストを尽くしてる"ように見えているかどうか"が…

「がんばってるじゃん度」としよう。

はたからみてベストを尽くしてるようにみえるか、がんばってるように見えてるかどうか。

そりゃ新人さんとかはまだ具体的なパフォーマンスがないわけだから、「がんばってるじゃん度」で評価を相対的に振り分けるのは仕方ないっちゃないけれども。

意外と意味ないんじゃないかという仮説。


評価する側が無意識に、楽に、感情的に評価してすますためのただのバイアスなんじゃないか説。

実際のパフォーマンスと、がんばってるじゃん度がどう人の評価というか印象に作用してるのかを、これまた独断と偏見で図にしてみました。

いちどわかりやすく、新入社員とか新人さんとか、"自分がそこそこスキルを持ってる分野に入って来たビギナー"に対する印象の持ち方と考えます。

※僕は管理職でもなんでもないんで、ただ人が人に印象を持つときにどういうことが起こってるのかを分析してみただけです。人をどう評価するかは、物語での感情移入の鍵でもあるので。あしからず。

うわー。
まずこの「あいつはダメだ」の面積の広さ。
そこそこパフォーマンス出してる子でも、がんばってるじゃん度が低いと、つまりわかりやすいやる気シズルを出してないと、パフォーマンスとは関係なく「あいつはダメだ」と言われてしまう…。

※文と離れちゃうので繰り返してるだけで同じ図です

パフォーマンスが高くてがんばってるじゃん度も高い子は「あいつは優秀だわ」と評判になるのは当然で、かわいがられる。ただし先輩より優秀だとたまに妬まれる。かも。あとは初期値が高くてうまくいってただけで安心されてあんまり教えてもらえず、気づいたら伸びてないみたいな危険はある。油断は禁物。

パフォーマンスが低くてがんばってるじゃん度も低いと「ないわ」と言われるのはしゃーない。

※文と離れちゃうので繰り返してるだけで同じ図です

がんばってる度にかかわらずパフォーマンスがあまりにも低いと「向いてないんじゃない?」と言われるのも、しゃーない。先月の僕の記事のように教えてくれる人がよくない説もあるが、「向いてないかもしれないね」という印象はその時点ではいたしかたないものとする。だって印象だから。そう思うのも無理はないけど、短絡的に確定するのはよくない、という話にしたくて書いてるのだが、今はいったんおいておこう。

※文と離れちゃうので繰り返してるだけで同じ図です

あんましないだろうが、パフォーマンスがめちゃめちゃ高くて、がんばってるじゃん度が全然ない子の場合。流川とか飛影がこの感じに近いのか?いうても彼らは作中こっそりがんばってる度満載なシーンを観客には見せてるからここで出すのはこんがらがるけれども。
とにかくそういう、パフォーマンスは高いけどがんばってるじゃん度が低い子は、このようにいろいろ言われる。漫画だとだいたいあとで主人公に抜かされて「なにぃ!?」ってなるやつ。


※文と離れちゃうので繰り返してるだけで同じ図です

次に、実際のパフォーマンスはすごい低いんだけど、がんばってるじゃん度がめちゃめちゃ高いやつ。いじわるな人には「向いてないんじゃない?」と言われるけど、素質があっていい師に見出されると途端に桜木花道化する。繰り返すが、素質があったうえで、いい師やいいライバル、いい環境があればの話である。

そして、本題。「がんばってるじゃん」ゾーンだ。
僕の独断と偏見だと、2パターンある。

※文と離れちゃうので繰り返してるだけで同じ図です

そもそもなかなかのパフォーマンスを出してるやつで、かつがんばってるじゃん度も低くはない。まあまあできる子。"がんばってるじゃんA"だ。これは一番いいんじゃないか。
そこそこパフォーマンスは出してるけど、まだ「優秀」と安心されるところまではいってない。つまり気にはかけてもらえる。自分のポテンシャルでスタートダッシュを決めつつも、出来すぎるがゆえにいろいろ教えてもらえる機会を失うことも少ない。

パフォーマンスはまぁ普通かそれ以下ではあるけど、がんばってるじゃん度が高いやつ。これが"がんばってるじゃんB"だ。人によっちゃ「あいつはダメだ」に侵食されることもあるけど、基本的には「がんばってるじゃん」ゾーンだと考えていいだろう。ここも得だ。がんばってる度がそもそも高いので、パフォーマンスの高低にある程度かかわらず応援してもらえる。教えてもらえる、助けてもらえる。

新人はひとまず、少なくともオレンジのゾーン、"がんばってるじゃんA"か"がんばってるじゃんB"を目指そう、と言うのは簡単だ。そんなのはたぶん日本全国みんなわかっていることだ。

問題は薄いグレーのあたりである。
"パフォーマンスが高いのに、がんばってるじゃん度が低いといろいろ言いたくなる問題"や、"がんばってるじゃん度が低いと、パフォーマンスでの必要点が高くなる問題"である。

僕が自覚あるのもこのへんの問題。だ。

がんばってるじゃん度によるは、良い方に使えば、その人たちの中では基本、問題ない。がんばってるように見えたら認めてあげて〜。


ただ"その裏で同時に"このグレーのゾーンがあるとちょっと問題だ。

ある程度パフォーマンス出してれば、がんばってるじゃん度がある程度低くてもちゃんと評価すべきだし、してあげないと去られちゃう空気が広がって来てるような。そんなのわかっとるわい!と言われそうだが、これは実際に評価を下す責任がある人たちというより、まわりのただの先輩とかの、評価する責任がないぶん無抵抗に心の中でおもってて、態度でにじみでる評価の話である。

感じのいい元気な子がかわいがられるのは全然おっけーなんだけど、
基本的にネット時代というかアンチ・テストステロン時代のいまは、おとなしくてもちゃんとやる子のことは気をつけて見て、がんばってるじゃん度は別の軸でちゃんと評価してあげないとまぁなんつーか、かわいそうだし、もったいない。

そういう子が淘汰されてもいたしかたなかったのはゴリゴリのテストステロン時代であって、世界的なギークの逆襲的流れになってるいま、自分のなかの印象が"がんばってるじゃん度"によりすぎてないか注意しないといけない。あたりまえのことではあるけど、あらためて思った次第。

んじゃあ、人に対する印象や評価じゃなくて、作品や作者についてならどうか。これは"がんばってるじゃん度"で得をする、というのがいまはうまくはたらいていると考える。

とにかくヘタでも、はたからみた"がんばってるじゃん度"で評価がブーストされる場合があると思う。むしろそういう方がおもしろがられたりしてる。

そう考えると、パフォーマンスのかわりにどういう軸で考えるのがいいか。

書きながら別のCPUで考えてて出た説だからいきなりだけど、これはたぶん"すごい度"だ。

単純なクオリティの高い低いではなく、純粋なおもしろさの優劣でもなく、"すごい度"

これで考えると、超絶クオリティもそれはそれで"すごい度が高い"になるし、ヘタでもスケールや投下した時間など、量が圧倒的な場合も"すごい度が高い"になる。いままで誰もやったことがないことをやれば、それだけで"すごい度は高い"。

量が圧倒的なことはそのまま"がんばってるじゃん度"が高いとも言える

"すごい度"が高ければ、必要な"がんばってるじゃん度"は低くなるし、

"すごい度"が低くても、めっちゃアピールしてたり制作過程を見せまくってたりといった"がんばってるじゃん度"が高いと、カバーできる

なにがカバーできるかというと、"人気獲得に必要なパワー"だ。

僕のnoteの1回目の記事からさんざん考えて来たプロアマのちがいの別回答。

オンライン上の人気という点においては"がんばってるじゃん度"がアマの超パワー武器となってるし、人気勝負でプロがアマに負けまくってるのは、クオリティじゃないとこでの"すごい度"で負けてることももちろんあるけど、"がんばってるじゃん度"がアマの圧倒的なそれに対して対抗できてないってことも多いんじゃないかと。

プロっぽくなっていくにしたがって"がんばってるじゃん度"をゴリゴリ放出していくのはカッコ悪い、というのは一理あるし、自分もそう思う。

ただ"がんばってるじゃん度"は、得ということだ。まったく興味を持ってなかった作品も、ツイッターでめっちゃ作者ががんばってアピールしまくってるのに触れ続けると、ちょっと観てみたくなるし。

才能がなきゃ努力でカバー的な話は昔から言われてるけど、「そんなこと言ったってこっちはこんなにがんばってるのにぜんぜんだぜ泣」という反論がある。そこに「努力が足りない」「もっとがんばれば」と言うこともできるけど、"がんばってるじゃん度"が足りないという説が加わる。伝わってないし、伝わればどこかに響くかも。

"がんばってるじゃん度"は実質的ながんばってる度と関係ないわけではない。"がんばってる度"を出していくにはそもそもがんばることが必要だから。

がんばらなくても"がんばってるじゃん度"は出せるってことはなくて、主観的な"がんばってる度"を最大値まであげてもうまくいかないときは、それがかもしだして客観的に伝わる"がんばってるじゃん度"とのギアが合ってるかを考えるといいかもしれない。

映画の主人公と一緒だ。

主人公が心の中や家でどんだけ葛藤したりがんばってても、カメラに映されるなにかで表現されなければ、それは観客には伝わらない。

カメラ(他人の目)を通したときにどれだけ表現され伝わっているか。これが"がんばってるじゃん度"である。

脚本で言うと、設定画やト書きでいくらなにをがんばってるのか書いても、映像にうつらなきゃ伝わらない。伝わらなきゃ応援されない。応援されなきゃ感情移入されない。感情移入されなきゃおもしろがってもらえない。当然でした。

評価される側の人や作品は、"がんばってるじゃん度"をうまく使うといい。
評価する側の人は、"がんばってるじゃん度"にまどわされすぎるのもいけないけど、素直にのっかってみるのもいい。

ときにがんばることよりも、「そう見える」ほうが大事である、というのはそういうことだ。

ただひとつ、"がんばってるじゃん度"が足りなくみえるからって人や作品のよいところ見逃すのだけは、注意しないといかん。ということでまとまった。

と、当然のことに自分で納得するまで4500字かかりました。

ね!!!がんばってるでしょー!!!!!!!


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また映画つくりたいですなぁ。夢の途中です。