【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 21
12月24日、宝大王は難波宮に行幸し、百済援軍の諸準備を開始した。
西海を渡るための軍船は、駿河国(するがのくに)(静岡県)に勅をして造らせた。
しかし、出来上がった軍船が、難波津に回航されてくる間に不吉なことが起こる。
続麻郊(おみの)(三重県明和町祓川河口域)に停泊した軍船の艫と舳が、夜中のうちに反転してしまったのである。
人々は、敗戦の前触れではないかと噂した。
また、科野国(しなののくに)(長野県)から、「蝿の群れが西に向かって、巨坂(おおさか)(神坂峠)を飛び越えて行った。群れの大きさは十囲ほど、高さは天に届くほどでした」との報告があった。
これもまた、援軍が負ける前兆ではないかと噂し合った。
「どうもいけませんな。国が纏まるどころか、百済救援に対して非難の嵐ですぞ」
蘇我連子大臣(そがのむらじこのおおおみ)は、鎌子を見て言った。
彼は蘇我赤兄の兄で、一応、飛鳥派の代表ということで中大兄の推挙により、巨勢徳太亡き後、空席となっていた大臣の坐を占めていた。が、大して政治的能力には優れた人材という訳ではない。
事の発端の鎌子は恐縮した。
難波宮の大殿に集った重臣たちは、百済援軍が思うように編成されない事態を憂慮していた。
「しかし、内臣殿の考えは間違ってはいないと思いますが。要は、方法の問題なのですよ」
鎌子に助け舟を出したのが、赤兄であった。
「で、赤兄には、何か良い考えがあるのか?」
「はい、よく言うではないですか、迷った時は前例に倣えと」
「前例?」
群臣は顔を見合わせる ―― 前例とは何であろうか?
「足仲彦大王(たらしんがひこのおおきみ)と気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の故事に倣うのです」
足仲彦大王とは仲哀(ちゅうあい)天皇、気長足姫尊は神功(じんぐう)皇后のことである。
「足仲彦大王と気長足姫尊の故事と言うと、大王自らが西海を渡り百済救援に向かうというのか?」
仲哀天皇は、自ら兵を率いて熊襲を平定した天皇である。
彼は道半ばで亡くなってしまうが、神功皇后が彼の意志を継ぎ、熊襲を平定する。
さらに彼女は、兵を率いて半島に渡り、新羅征伐を行ったのである。
が、これはあくまで伝説で、事実かどうかは分からない。
「大王が西海を渡るのは行き過ぎにしても、大王が援軍を率いて、我が国の最前線まで西征なされば、西国の豪族たちも恐れをなすはずです。それでも従わない豪族には、大王自ら説得なさるか、はたまた征伐なされるかすれば宜しいのです」
「確かに、大王自らが兵を率いて西征なされば、豪族に対するこれ程の効果はないでしょう。しかし、足仲彦大王と気長足姫尊と言っても男大迹大王(おおどのおおきみ)(継体天皇)より以前の王家の伝説上の大王の話ですよ。しかも、男大迹大王以降、大王自ら兵を率いたことはございません」
鎌子は赤兄に詰め寄った。
「いままでは……でしょう? いまからは、そういうこともあるのです。しかも今回は国の大事、そんな悠長なことは言っておられないのではないですか? そもそも、百済救援は国を纏める好機と大王に進言なさったのは内臣殿ですぞ。この段階で纏まるどころか、飛鳥を非難している豪族がいるようでは、次の段階も考えないといけないのではないですかな?」
これを聞いた鎌子は、口を閉ざすしかなかった。
赤兄が、宝大王の西征を勧めたのには、彼が言ったとおり神功皇后の故事に倣うという意図があった。
しかし、それは新羅征伐の故事ではなく、新羅征伐後に応神(おうじん)天皇を身篭ったまま難波に帰還し、彼を大王の位に就けたという故事の方であった。
赤兄はこの故事に倣い、宝大王が百済救援後に飛鳥に帰京し、中大兄に王位を譲るという大舞台を準備しようとしていたのだ。
そうすれば、中大兄は応神天皇のような偉大な大王のなれると考えていたのである。
結局、赤兄の言が受け入れられ、斉明天皇の治世7(661)年1月6日、伝説上の仲哀天皇を除き、初めて大王が西に下った。
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