【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 4
しばらくして、縁に腰掛ける二人の姿があった。
有間皇子は、侍女の持って来た水を上手そうに飲んでいく。
その度に、彼の咽喉は激しく上下した。
間人皇女は、その動きに見とれた。
軽大王の咽喉は、こんなに動かなかったわ。
改めて有間皇子の横顔を眺める。
彼は、父 ―― 軽大王と違い、切れ長の目とすっきりした顎、そして細く長い首を持っている。
間人皇女は、その流れるような首筋を見つめた。
「何か?」
水を飲み終えた有間皇子は、その切れ長の目を寄越した。
「えっ? あっ、有間皇子は母親似なのね」
「そうですか?」
有間皇子は、鋭く会話を切った。
次の言葉はなかった。
間人皇女は、自分が有間皇子に嫌われているのは分かっている。
―― あなたのお父様を愛せなかった女ですもの、仕方がないね。
でもね、私も辛かったのよ
愛のない人生なんて………………
彼女は、自分の境遇を怨んでいた。
一度大后になった以上は、大王以外の男を愛し、関係を持つことは許されない。
それは、大王の権威をひどく貶める行為であるからだ。
だが、もし彼女が婚姻関係を持つことが許されるなら、その相手とは前大王と同じ力を持つ人物 ―― 即ち未来の大王しかいなかった。
そのため、彼女には、最早愛のある生活など望めなかったのである。
それが、彼女には恨めしかった。
―― 枯れたも同然ね。
彼女は、有間皇子に気付かれないように、静かにため息を吐いた。
「大后は、なぜ難波に残られたのですか?」
「えっ?」
有間皇子の突然の質問に、少しばかり動揺した。
―― それは、あなたのことが気になるから………………
と言いたかったが、寸前のところで止めた。
「それは、有間皇子が、ここに残ると言ったからです。私は軽様の大后ですから、有間皇子の行く末を見届ける義務がありますか」
「義務ですか……」
義務などと、言い方が悪かったかしら?
彼女は、立ち上がる有間皇子を見た。
「義務などと言う気遣いは無用です。もう父上も亡くなったのですから、大后も勝手に人生をお楽しみ下さい」
有間皇子はそう言うと、間人皇女の前を立ち去った。
彼女の前には、有間皇子の飲み干した器が残された。
―― 義務だけじゃないのよ………………
彼女は、有間皇子の唇が触れたであろう縁に、そっと唇をあてがう。
微かに、かの残り香を感じた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?