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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 後編 2

 聞師は1人塔の中に入ると、中から2人を呼んだ。

 弟成と黒万呂は、呼ばれるまま中に入って行く。

 塔の中は、外の青空が嘘のように暗い。

 弟成と黒万呂は目を凝らした。

 格子窓から忍び入る光が、漆黒の床に青い波を作る。

 明師は、油皿に火を入れる。

 それでも、塔内を照らすには不十分だ。

 明師は明かりを持って奥に入って行き、塔心を明かりで翳した。

 するとそこに、右手を天に高く掲げる人物像があった ―― 顔は、随分穏やかだ。

「ほう、出胎像ですか?」

 聞師は、その像を覗き込んでいった。

「ええ、この塔では、南面に出胎像、東面に成道像、北面に涅槃像、西面に分舎利像を置いています」

 弟成と黒万呂には、2人の会話は全く分からない。

 それに気が付いたのか、聞師はその像について説明してくれた。

「これは、お釈迦様がお生まれになられた時の像だ」

「お釈迦様って、あの金堂にいる?」

「そう、良く知っているね」

「でも、何で右腕挙げてんねん?」

 黒万呂が訊いた。

「お釈迦様は、この世に生を受けた時に、7歩前に進み出て、四方を見渡し、片方の手で天を、もう片方の手で地を指差して、『天上天下唯我独尊』、即ち、この世に私ほど尊い存在はないとおっしゃったのだ。これは、その時のお釈迦様を表した像だよ」

「ふん、えらい威張り腐ったヤツやの」

 黒万呂は、つい口を滑らせてしまった。

「馬鹿者! お釈迦様に向かって、なんて口の聞き方をするのだ」

 怒ったのは明師であった。

 逆に、聞師は笑っていた。

「なるほど、確かに威張り腐ったヤツだ」

「聞師殿!」

 明師は彼を嗜めた。

「いや、これは失礼。あくまで、これは言い伝えだから、まさか、生まれた子供が行き成り立ち上がって、言葉を発する訳はないよ。ただ、こんな言い伝えが残るほど、お釈迦様は偉い人であったということだよ」

「その人、何をした人なん?」

 弟成は、日ごろ抱えていた疑問をぶつけてみた。

 大人は、お釈迦様は偉い人だと言うけれど、一体どんなことをした人なのか?

 それを問うたところで、誰も偉い人だと言うこと以外は知らなかったのである。

「そうだな、簡単に言えば真理を会得した人だが、そんなことを言ってもお前たちには分からんだろうな。実を言うと、私も分かっていないからな」

「なんやそれ!」

 また、黒万呂が呟いた。

 今度は、彼も仕舞ったと思ったのか、両手で口を塞いだ。明師が彼を睨みつける。

「あはははは! お釈迦様の教えを分かっている人なぞ、この世にはいないよ。分からないから、皆、ここに来て勉強するのだよ。入師様も、明師殿も、そして私も。何かを求めるためにな」

「何かって?」

「うむ……、それが何なのかを、私は知りたいのだ」

 塔内は、異様な静寂に包まれた。

「お前たち、もう良いだろう。そろそろ出ましょうか、聞師殿」

 明師のその一言で、皆は表に出ることにした。

 その時、黒万呂が戸口付近に並べられた数十体の仏像に気付いた。

「これは?」

 彼は、その仏像を指差して尋ねた。

「それは……」

 聞師には分からないらしい。

 彼は、明師の顔を見た。

「ああ、それは、ここで亡くなられた山背(やましろ)様御一家を弔うために、入師様がお姿を写して作らせたものなのですよ」

「そうですか、あの時の……」

 その仏像は、金堂や塔内の釈迦像に比べれば幾分作りが荒い。

 弟成は、その中で一番小さな、そして顔立ちが女の子のような像を見つけた。

 ………………どうも、見覚えがある顔だ。

「これは、亡くなった人を弔うために、その人の姿を写して作らせたものだ」

「なんで、そんなことするん?」

「亡くなった人を偲ぶためでもあろうが、一番の目的は、その人の魂を鎮めるためだな。人は亡くなると、その人の魂が飛び出て、この世をさ迷い、生きている人に悪い影響を及ぼすと考えられているからな。その魂を鎮めるために、このような姿像を作って、毎日礼拝するのだよ」

 弟成は、黒万呂と聞師の会話を黙って聞いていた。

 ―― 三成の魂も、さ迷っているのだろうか?

    だとすると、これは大変だ。何とかして鎮めてやらないと………………

 弟成は、思案に暮れながら表へと出た。

 暗闇に慣れた彼らの目に、玉砂利に照り返される光が飛び込んできた。

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