【風呂酒日和:番外編2】 日野湯(ひのゆ)
※本編最後まで読めます。
ひっそりとしたちょっと広めの路地を進む。
向こう側にはちょうど沈みかけた夕日が見える。
眩しくて目を細めながら歩いていると突き当たりに鮮やかな赤紫色ののれんが現れた。
ひらがなで一枚に一文字ずつ「ひのゆ」と書いてある。
電球色の落ち着いたロビーには正面にこじんまりとした受付。
受付の中にはこじんまりとしたおばちゃんがニコニコと収まっている。
右手にはテレビとふかふかそうなソファの休憩スペース。
左手には小さな屋台のようなカウンターのようなものがある。
なんだか小粋な気配。
無人だが、牛乳やスポーツドリンク、アルコール。ちょっとした駄菓子とおつまみ、そして端に見える金の取っ手はビールサーバーだろうか。
"ご利用の際は受付までお声掛け下さい"と書いてある。
私は絶対にお風呂上がりにお声掛けすることになるだろう。
そう確信する。
入浴料を払いながら、タオルは借りれますか?と聞くと、おばちゃんが明るい口調ではいはーいと、バスタオルと手ぬぐいを貸してくれた。
セットで100円。
「今日は月初だから新しいシャンプーが入ってるよ」とにこやかに言う。
新しいシャンプーとは、なんだろうか。
「うちは、次の初めに無料で使えるシャンプーを入れ替えてるの。私はあんまり詳しくないんだけど、なんか最近の、おしゃれなやつだよ〜。」
おばちゃんは得意げに教えてくれた。
提携しているメーカーとの販促品のようなものだろうか。
「自由に使ってね。気に入ったら、ここでボトルも売ってるし、使い切りのちっちゃくて安いのもあるわよ!」
なかなか商売上手そうなおばちゃんである。
でも、新しいシャンプーを無料で試しに使えて、気に入ったらここで買えるのは確かに嬉しいシステムかもしれない。
今月はどんなシャンプーが入っているかなと通いたくもなる。
脱衣所に向かう。
明るいながらも落ち着いた風合い、窓が多くて風通しもよく、清潔だ。
つくりはとてもシンプルで、ロッカーと洗面所、真ん中には荷物をまとめたり、ちょっと腰掛けたりできる正方形の大きめなベンチが置いてある。
身支度をして、早速浴室へ。
手前に洗い場、奥に浴槽が集まるベーシックな配置。
洗い場は固定シャワーの島と、手持ちシャワーの島がある。
常連風のおばあちゃんは慣れもあるのか固定シャワーを使っている。
手持ちシャワーの洗い場には、小さな姉妹を並べて手際よく2人を洗うお母さんが。手遊びして騒ぐ2人を時々「シー、もうちょっと静かに。」とたしなめている。
体を洗い、浴槽へすすむ。
まずはジャグジーがボコボコとする大きな方へ。
熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどよい。
たまたまそういう日だったのか、ちょっと大きめの柑橘系の黄色い果実が網に入れられ、プカプカと浮いている。
ほんのりと爽やかな香りが漂う。
姉妹がここに入ったら、お母さんに触らないの!なんて言われるんだろうなと想像する。
続いて、隣の浴槽。
私の大好物、炭酸泉だ。
ちょっとぬるめのお湯に全身を浸すと、細かな気泡がぷつぷつとくっついてくる。
ついついずっと入っていたくなる炭酸泉。
狭いと長居するのもちょっと気が引けるが、ジャグジーの浴槽よりは小さいものの、十分な広さがあり、気兼ねなく入れる。
ひとしきり浸かって、一度浴槽を出た。
洗い場には受付のおばちゃんが言っていた通り、普通のリンスインシャンプーとボディソープの隣に、何やら今風のおしゃれなボトルのシャンプーとコンディショナーが置いてある。
これか...と眺めているとボトルの近くに座っていたおばちゃんが「ほらこれ、今月のだってさ。そっち持ってっていいわよ〜」と声をかけてくれた。
ありがとうございます。と手をのばす。
「あたしはそういうのわかんないからさ、いつもの普通のでいいのよぉ」
と言って笑いながら、荒めのタオルにボディソープを乗せ、わしわしと泡立て始めた。
オーガニックなんとか、と横文字で書いてあるちょっと高そうなボトルから
シャンプーを出し髪を洗う。
おぉ、なんかいい感じ。
よくわかんないけど、いい女になれそうな匂いがする。
使ってみながらイマイチ気の利いた感想が出てこない自分に、私もおばちゃんとたいして変わらないかもなんて思いつつ、それでもなんだかちょっとワクワクする気分になる。
私の中の数少ない乙女心がワクワクしている。
コンディショナーも使って、いつもよりもしっとりした気分になりながら、私は洗い場から立ち上がった。
炭酸泉の隣にある趣のある開き戸。
扉を開けると、そこには露天風呂があった。
楕円のような形の岩風呂で、周りには木調の塀。
塀が高めに伸びている分、上空は抜けていてオレンジの空がよく見える。
ちょっと熱めのお湯に涼しい外気と、まだ温かい日差しの気配。
一番いい時間に来たかもしれない。
気持ちのよい外の空気を吸い込み、「ふぅぅぅ」と幸せのため息をこぼす。
最後にもう一度炭酸泉を満喫し、私は浴室を後にした。
いそいそと身支度を整える。
私の足を浮足立たせているのはもちろん、あのロビーにあったビールサーバーだ。
お風呂を満喫し、すぐさまあのふかふかソファで1杯飲めるなんて、ここは天国だろうか。
脱衣所から出て、ありがとうございましたと言ってタオルを返しながら、受付にちょこんと座るおばちゃんに話しかける。
「あの、生ビールを、お願いします。」
はいはーい、サイズは?と聞くおばちゃん。
普通のジョッキと、一回り小さいグラスくらいの小さなジョッキがあった。
断腸の思いで「小さい方で。」と答える。
ここで宴会を開始してはいけない。
私にはひと風呂浴びたら、その街で1杯引っ掛ける素敵な店を見つけるという重要な使命があるのだ。
小ジョッキは250円。
おばちゃんにお金を払ってグラスをもらう。
「わかんなかったら、言ってね」と言われたが、バーでアルバイトをしたことがあるため、ビールサーバーの扱いには自信がある。
いや、自信があるとまでは言わないが、なんとなく使い方はわかっているつもりだ。
最初にハンドルを手前に倒し、黄金色の輝きをグラスで受け止める。
それから最後にちょっとだけハンドルを奥に倒し、泡を乗せた。
泡を少なめにしたのは、がめついからじゃない。
泡少なめが好きなのだ。
決して少しでも多く飲みたいわけではない。
ほくほくと小ジョッキを持って、休憩スペースのソファに座る。
ふかふかながらも浅めに沈む、しっかりとしたソファ。
それでは、と一人空に向かってちょっとジョッキを掲げ、ごくごくと喉を鳴らす。
「くぅぅ!」と叫びたいところを後ろのおばちゃんを気にして、無言でくぅぅ!の顔をするに留める。
ここまでが銭湯と呼んでも過言ではないかもしれない。
テレビをちらっと眺めながら一度グラスを置くのにローテーブルに目を落とすと、ローテーブルのガラス天板にはこの辺の周辺マップが挟まっていた。
「日野町ほろ酔いマップ」と書かれたその地図には周辺の居酒屋やバル、レストランなどのこの辺に点在するであろうお店が、なんだか懐かしいタッチのイラストで描かれている。
私は目を輝かせ、その地図をしげしげと眺めた。
お風呂上がりに1杯飲みながら、美味しい店を探せるなんて、いたれりつくせりである。
私にとって完璧な段取りだ。
これを考えたのは、私なのではないだろうか。
にやにやしながら地図を眺めていると、気になるお店を見つけた。
なんだか親近感が湧く店名だ。ここからもそんなに遠くない。
よし、ここだな。そう思いながら私は小ジョッキを飲み干した。
「ごちそうさまでした。」といってカウンターの返却口と書いてある棚にジョッキを置く。
「はーい、ありがとうございました〜」おばちゃんが明るい口調でぺこりと頭を下げた。
身も心もさっぱりと、晴れやかな気持ちで私は日野湯を後にした。
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