推しを推せない。オタクが羨ましい私は「私オタク」?


常日頃思っていることがある。
私は「オタク」が羨ましい。

一昔前は「オタク」というとなんだか世の中にはマイナスっぽいイメージがあったかもしれないが、私はオタク、マニアと言う言葉が割と好きだ。
言葉というよりはそれらの人の、激しく何かを愛していたり、突き詰めている姿がすごいなと思って、羨ましいと感じる。

オタクの人は、人生がとても楽しそうである。
その対象のことを考え、追いかけ、よく調べて、時にはその同志と語り合い、時にはどれだけそれがいいものなのかをみんなに布教し、それが生きがいや日々の潤いとなって人生を彩り、謳歌している気がする。


そんなことを思っている私だが、以前はちょっとオタクが苦手だった。
なぜそんなにも夢中になれるのだろう、どうしてそんなに激しく自分の「好き」を表に出せるのだろうと不思議に思っていたのだ。

そして、その苦手な気持ちというのは、オタクの人に対してということではなく、自分にはその気持ちがない、またはあっても恥ずかしくて表には出せないという性格から来ているものだったということが最近になって判明する。


私は昔から、モノや人にそこまで大きな愛や激しい興味を持つということが少ない。ファンクラブなどに入ったこともないし「推し」や「〇〇ロス」なんて言葉もあまり縁がない。

一番自分が気になるもの、なんだろうか。
しいていうなら自分かもしれない。しかし、自分のことや自分のやっていることに多少の愛や興味があってもそれを応援したり、布教したり、表に出すということはない。
頑張って挙げた一番興味があって愛を向けているのが自分...。
私は「自分オタク」なのだろうか。
なんだか一番つまらなくて、身勝手な凡人という感じがする。
自分に興味があるのなんて皆大体そうに決まっている。

そして私は、好きなことや少し興味の抱くものがあってもそれをなぜだか隠したがる癖があった。
人に言うのが恥ずかしかったり、みんなに知られてしまうのが嫌だなんてもったいぶって、秘めた思いで1人で好きでいるのが常だった。
(別に私がそんなこと思わずともおそらく私が知っているくらいならそれは程々に有名だろうに)

だからこそ、表に出して「この人が好き!」「これが最高!」「みんなも知ってほしい!」「同じものを好きな人と分かち合いたい!」という発想が、なんて寛容で懐の広い、深い愛なのだろうと思ったのだ。

そこで私は気がついたのだ。
私はオタクが苦手なのではなく、きっとずっと羨ましかったのだと。

羨ましいものの、自分にはそんなに熱い思いを持って「大好きだ」と推せるようなものがあまりないし、それを外に出したいともやっぱり思えない。
このnoteでかろうじて好きを全面に出しているのなんて、薬味くらいである。
別に恥ずかしいものを好きなわけではないのに、なぜ表に出すのが恥ずかしいと思ってしまうんだろう。



オタクの人のそれに対して熱意を持って語る文章や、対象の動きを自分のことのように一喜一憂してSNSなどで発信し合っているのを見ると、いいなぁ、楽しそうだなぁと思う。
もちろん限度を超えてそれが迷惑行為にもなりうるレベルの人は良くないが。何事もtoo muchは良くない。
でも、同志と楽しんでいる人たちのvery muchくらいの愛を見ているのはすごく好きだ。

オタクに憧れるなんちゃって自分オタクな私は、いつかそんな風に堂々と愛を叫べるような対象と、その心意気が持てるように日々愛せるものを探している。

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