ドクトルノンキーの曾孫

1979年生まれの会社員です。明治に生まれ大正に壮年を過ごした曽祖父の、東京見聞録を地…

ドクトルノンキーの曾孫

1979年生まれの会社員です。明治に生まれ大正に壮年を過ごした曽祖父の、東京見聞録を地道にいまの言葉に転写するノートを綴っています。

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最近の記事

外観美の宗教

東京徒然旅は四日目に入って、今日は水曜日。ドクトルの気持ちは幾分引き締まっている。母校の慈恵会医院に出向き、知り合いの樋口医師のオペラチオン(手術)を見学することになっているのだ。 横浜の家の、敦氏夫妻と止信氏に、 「今夜もまた、すこしくらい遅くなっても、きっとお帰りなさい」 という温かい言葉で見送られ、ビシッとチョビ髭を整えたドクトルは、揚々と電車に乗り込んだ。そして、田町駅で下車し、しばし三田の通りを散策した。その時分より遡ること十数年前、ドクトルがまだ学生で勉強に

    • 不埒の評論

      上り電車と下り電車を間違えたことをドクトルは引きずっていた。次の項の冒頭にこんなことが書いてある。 「暫く東京行きを怠っているらしく思われる一部の読者諸君が、院線電車内において行われたる吾輩の赤毛布式失策を嘲笑することも、矢張り矛盾で、滑稽で、無価値であるんである。といっても、敢てこれを賞賛して戴く事柄でも無い事は勿論である。」 誰がそんなふうに思うだろうかと感じるが電車の行き先を間違えることが一大事な時代だったのだろう、と思うことにしておこう。 さて、予定時刻よりは回

      • うつけ者

        銀座から、宿にしている、弟が住む家のある横浜に帰る時間、まだ、西の空には赤々と太陽が高く架かっていた。そういえば、有楽町駅も見物しておこう、と、ドクトルは少し歩いて、銀座からではなく有楽町駅から電車に乗る事にした。当時、東京駅と新橋駅の間にあって、有楽町駅の建築物は、ドクトルの原文によれば「殆んど其の存在を疑わしむる程小規模の建築」であったが、その実、当時、有楽町エリアも既にビジネスセンターとして栄えていた。 ここでドクトルはひとつ失態を犯した。有楽町から電車に揺られ、歩き

        • 刹那の快感と天麩羅と

          遊就館でひとときを過ごしたドクトルはすっかり、日本武士道のインスピレーションに打たれた気持ちになり、しかし一方で、特に書物や講義にて勉学に励むことなく博物館にて感銘を受けた自分をやや安直な人間だとも感じながら、とにかく次の目的地に移動しようと、神社に一礼して通りへ出て、最寄の停留所から新橋行きの電車に乗った。電車は、新春のまだ蕾も現れない吉野桜の並木を縫い、快速で麹町の通りを抜けた。半蔵門外を過ぎて、皇居の外堀に目を向ければ、枯芝の上まで水鳥の大群が賑やかに場所を占拠していた

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        • 一寸東京まで
          31本

        記事

          「神霊の威力」

          九段坂に到着すると、まだ往来が馬車が行き交っていた時代のこと、運送馬が重い荷を搭載した車を引き坂を上っているのをドクトルはフムフムと眺め、当時の「警察犯処罰令」のことを思い出した。 「公衆の目に触るべき場所に於て牛馬其の他の動物を虐待したる者」 は、二十円未満の科料に処せられることになっている。医業を営むドクトルにとってこれに等しい刑罰とは 「開業の医師産婆故なく病者または妊婦産婦の招きに応ぜざる者」 ということであった。ともかくも、要は坂を仰ぎ見て「馬も大変だなぁ」

          泥中の蓮

          夜の散歩から、今宵の宿である山科医師の自宅に戻るとドクトルはまず持ち歩いていた胃薬を飲んだ。御馳走を振る舞われたうえに、ついはしゃいで神保町を散歩中に汁粉屋に寄ってしまったものだから胸が焼けたのだ。 「汁粉はまずかった。国で想像していたほうがよっぽど旨かった」 などと、ドクトルはただの食いすぎの己を棚にあげて悪態をついたのであったが、「今回の旅行中必ず汁粉を食べる」と決めていたので仕方がなかった。しかし恐らく酒豪なので甘いものはいまひとつだったものと思われるし、越後で暮ら

          再会

          時間を若干巻き戻すと、銀座三越よりかけた電話で、ドクトルと山科医師は次のような会話を交わした。 「おい、どうした豪傑、まだ生きていたかい」 「うん、生きていた。きみはまだ雪の中で蠢いていたと思ったら生意気に出かけてきたな」 「今日は是非、君の所へ行ってみるつもりなんだが居るかい」 「うん居る居る、五時ごろには帰って来るから、その時分に来い」 「よし、せいぜい御馳走用意して待っていたまえ」 「いくらでも御馳走してやるから田舎者は、眼をまわさんように用心して来い」

          時間つぶし

          ところでドクトルは、午前中に訪れた三越より、夕刻に、神田にて開業している親友の山科医師を訪ねる旨電話をかけていた。公衆電話が普及するよりもっと前、市街の電話は「自動電話」と呼ばれていたが、全く自動の反対で、交換手がつないでくれていたはずだ。「電話で」という以外、特に描写がないが、電話代が安くもなかった時代、ドクトルは「銀座の三越から電話をかける」ということをやってみたかったのかもしれない。 上野動物園をドクトルなりに堪能して、腕巻時計を見ると時刻は三時。山科医師を訪ねる前に

          動物の教訓

          通りすがりの美人に見とれて餅を丸呑みしても、同行の者がいないものだから、いまひとつ笑いにも代えられぬ消化不良のまま、ドクトルは動物園に入場した。 てくてくと広い上野動物園を歩き回りながらドクトルは、いろいろな動物について感想を手帳に書き留めた。以下の、曾孫による転記は、一言一句そのままではないが、おおむね以下のような塩梅である。 象。たった一頭の象に対して、あれだけの設備はやや過大のようである。図体の大きなものを飼うということは飼育主として最も苦痛を感じることで、これにつ

          「男性畜生論」

          本記事に、とんでもないタイトルをつける羽目になったが、このとおりにドクトルの原文に書かれていたのでご容赦いただきたい。ちなみにこれまでのところ、記事のタイトルは原文を転用したもの、曾孫が好みで付けたもの、まちまちである。今回は、このタイトルをひらめいたドクトルは恐らくかなり得意な気持ちになったのではと想像し、なんて暴力的なタイトルだと思いながら鍵カッコ付きで使わせていただいた。 株式取引所の喧騒をあとにしたドクトルは、趣を変えて上野の動物園に向かった。戦場のごとく必死に売買

          東株座の春狂言

          鰻飯にて満腹になったドクトルは陽気な気持ちになった。「胃の腑という人間のガソリンタンクへ、鰻飯という活動エネルギーに極めて豊富なガソリンをしこたま詰め込んだので、いかなる長距離飛行にも耐え得るようになったノンキー式第一号機を操縦する使命を帯びた吾輩は、借り着の飛行外套をフワリと羽織り」…と、意気揚々である。東京の興奮を伝えるための器具に不備はないか。手帳よし、萬年筆よし、と点検すると、ドクトルはまた電車に乗った。向かう先は、兜町の東京株式取引所であった。明治11年に設立された

          見るものだけは贅沢三昧

          レコード店、書店を巡り大好きなものを物色しながらも、なかなか思い切った買い物はできず、こりゃ「宝の山に入りながら手を空しくして帰る」ということだな、と明るく自嘲しながら、また「旅は始まったばかり、土産物は最後に買うものだ」とうそぶきながら、その足でドクトルは三越呉服店に入った。財布の紐を緩める段になると途端に我に返るのだが、華やかなものはとにかく見ないでは気が済まないのである。 デパートの元祖だった三越呉服店は、ドクトルの表現によれば、「栄華を誇る七階建の白亜宮」であった。

          見るものだけは贅沢三昧

          赤煉瓦の丸善

          銀座で音楽鑑賞にまつわるあれこれを愉しんだドクトルは、京橋のたもとから特に目的地も特になく路電に乗った。すると次に目についたのは、赤煉瓦の丸善書店だった。ドクトルはいそいそと下車した。 店先には「縦覧御御意」(ご自由にご覧ください)の札がかかっていたので、ドクトルは意気揚々と敷居をまたいだ。しかしその手に、書物に手垢がつかぬよう店員によって手袋が嵌められたので、ドクトルはなんとなく調子が狂って間が抜けた顔つきになった。一応真面目に医学書でも見ようかと、ドクトルは洋書の並ぶ二

          音の鳴るほうへ

          銀座の通りをぶらぶらと歩いていたドクトルは白い建物の前で立ち止まった。共益商社というその店で、当時、ヤマハピアノなどの楽器が販売されていた。越後の僻村でも蓄音機やレコードを集める音楽好きであったドクトルは、大好きなピアノやヴァイオリンが所狭しと並ぶのに惹かれて、半ば無意識に、大きなガラスのはまったドアを押し開けて中に入った。 「いらっしゃいまし、何か御用は如何さまで」 と番頭にかけられ、ドクトルは我にかえった。特に御用はない。が、ここは図々しく行くのが東京の歩き方、と思っ

          急行のエキサイト

          人の目に留まる行動のみならず、頭の中もじっとしておられないドクトルにとって、夢を見ない就寝は非常に稀であった。それを自分でもわかっていて、明日はどんな夢を見て目覚めるのかと、あるときは楽しみにしたり、あるときは怖がったりすることがドクトルの心の中の習慣だったが、くたくたになって眠った明くる朝はさすがに、まったく夢を見ずに目覚めた。日頃から早起きが習慣であったので、西戸部で迎えた朝も、白々と明けてきたばかりの時刻であった。 弟たちの住居は少し小高いところにあり、眺めがよかった

          安穏なる熟睡

          ドクトルが訪ねた横浜の西戸部には、ドクトルの弟がふたりと、片方の弟の妻の、計三名で暮らしていた。電話が一般的でない時代のこと、ドクトルは弟たちに、身を寄せる旨を連絡していなかった。敬愛なる先輩の金子氏には電報を打ったのに何故家族には連絡しないのか曾孫から見ると謎なのだが、兄がやってきて泊まると言えば断るはずのない時代背景でもあったのかどうか。 たったいま兄が訪ねてきたとは思うまい、さしずめ雪に埋没された越後の僻村で子どもと蓄音機に囲まれて過ごしていると思っているに違いないと