泥中の蓮
夜の散歩から、今宵の宿である山科医師の自宅に戻るとドクトルはまず持ち歩いていた胃薬を飲んだ。御馳走を振る舞われたうえに、ついはしゃいで神保町を散歩中に汁粉屋に寄ってしまったものだから胸が焼けたのだ。
「汁粉はまずかった。国で想像していたほうがよっぽど旨かった」
などと、ドクトルはただの食いすぎの己を棚にあげて悪態をついたのであったが、「今回の旅行中必ず汁粉を食べる」と決めていたので仕方がなかった。しかし恐らく酒豪なので甘いものはいまひとつだったものと思われるし、越後で暮らしているのだから餅を使った甘味など地元のほうが美味しかったのではないかと曾孫は思う。
さて胃薬がきいて無事に元気を取り戻したドクトルは、山科医師と丑三つ時まで語り合った。急激に文明も娯楽も発展している時代であった一方、戦乱の世でもあり、政治も経済も激動の時代なのだから話の合う仲間とは話題が尽きない。学生時代のように夜更かしをし、遅寝だったので早起きのドクトルにしては珍しく翌朝は九時頃に目覚めた。
洗面所で朝の日課を済ませて台所に行けば、山科夫人がきりりと着物にたすき掛けして朝食の支度をしてくれていた。
音楽の造詣が深く手に職を持った女性が主婦業に忙殺されていることに何か思うところがあったドクトルの脳裡に、「泥中(でいちゅう)の蓮」という言葉が浮かんだ。「汚れた環境に身を置いていても、染まらず清く生きること」という意味であって、それでは主婦業を「泥」ということになるのかというと甚だ失礼だが、百年前の価値観をそのまま現代に置き換えることも非現実的であろう。ともかくも思うところがあったドクトルは夫人に声をかけた。
「奥さん、なかなか御稼ぎですな」
「いえいえ、何もお構いもいたしませんで、ただ子どもばかりうるそうございまして」
「ヴァイオリンは如何です」
「いやいや、もう、学校におりました頃は少しお稽古も致しましたが、子どもを持ってしまいましてからは、ほんとにね、何もできやしませんよ」
「お芝居はお嫌いですか」
「ええ、私なんだかね、日本の芝居はわからないくせに嫌いなんですよ。やはり私どもには西洋音楽の入りましたオペラのほうが面白いんですよ」
「奥さんは、三浦環や原信子をご存知でしょう」
「ええ同窓なんですよ。あの方たちのように暮らしていられたら、ほんとうに結構でございましょうね」
三浦環、原信子とはそれぞれ一世を風靡し国際的に活躍したオペラ歌手・声楽家であった。当時の東京音楽学校、現在の東京芸術大学音楽学部において、世の中でほんの一握りにしか与えられないような英才教育を受けたひとりであった山科夫人のような女性にとっても、活躍の場はまだまだ限られた時代であった。夫人はそこへ甘えてやってきた我が子を抱いてたすき掛けのまま台所に座り、しばらくの間沈黙した。ノンキなドクトルの目には、夫人が華やかな学生時代に思いをはせて優しい目をしているように映ったが、実際のところどのような心境の沈黙だったのだろうか。
さて東京見物三日目。山科医師の診療の時間が始まったので、ドクトルは山科一家に手厚くお礼を述べ、九段坂方面へと出かけた。
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