見出し画像

刹那の快感と天麩羅と

遊就館でひとときを過ごしたドクトルはすっかり、日本武士道のインスピレーションに打たれた気持ちになり、しかし一方で、特に書物や講義にて勉学に励むことなく博物館にて感銘を受けた自分をやや安直な人間だとも感じながら、とにかく次の目的地に移動しようと、神社に一礼して通りへ出て、最寄の停留所から新橋行きの電車に乗った。電車は、新春のまだ蕾も現れない吉野桜の並木を縫い、快速で麹町の通りを抜けた。半蔵門外を過ぎて、皇居の外堀に目を向ければ、枯芝の上まで水鳥の大群が賑やかに場所を占拠していた。

電車を降りるまでのわずかな間にドクトルは水鳥について考察した。山に川に、野に海に、至るところに憎むべき人間とやらが居る故に、途中における危険を侵しても、人間の大集団たる都会に飛来し、安息し、やがてまた襲い来る食欲のためにまた安全な場所を探すというのは不思議なものだ。

何を見ても何か感想を持つ、頭の中が忙しいドクトルであったが、芝口一丁目という停留所に来ると、さてここらで髭を刈ろうと電車を降りた。ちょうどよい長さに留まってくれればよいのに刻々と伸びてしまう髭が気になって仕方がない。そこに「高等理髪」と書いた看板を見つけ、そんなに高等でもないのになと内心うそぶきながらドクトルは床屋に入った。

店内はそこまで綺麗でもなかったが、さすがは高等と自称するだけのこと、床屋では痒いところへ手が届く塩梅で、顔の撫で具合、剃刀の当たり具合、椅子の腰掛具合、いずれにも不足はなかった。ヒョロヒョロと生える雑草を刈るように顎下から肩へかけて綺麗に剃ってもらってドクトルはご機嫌になったが、そこで終わりとなりそうになったので慌てて

「おいおい、鼻と耳は剃ってくれないのか」

と言った。若いハイカラ髪の床屋が不思議そうに、「鼻をお剃りになるんですか」と尋ねた。

ドクトルは毛が深かったものだから、きれいに毛を剃って男振りを上げたいのであったが、それのみならず、剃毛による末梢神経の刺激が心地よいのであった。それゆえハイカラ男が

「鼻や耳をお剃りになるのは、お毒でしょう」

と言ったことにドクトルは多大の不平を感じ、

「毒でも構わねえ、僕はね、耳や鼻のような、穴を心地よく弄ってもらう事が大好きなんだよ」

と言った。ハイカラ男はやや軽蔑の意味を含んだらしい微笑を浮かべたが、そののち、じゃりじゃりと巧妙な技術でドクトルの期待に応えた。

恥ずかしい性癖を吐露した代償に希望通りに毛を剃ってもらって気を良くしたドクトルは、その足で、天麩羅屋に向った。江戸時代より神田川の鰻と並び有名であった烏森の「橋善」という店だ。ちなみに現在同店は閉店しているが、「橋善ビル」という建物として残った後、こんにちでは近鉄銀座中央通りビルとしてその名残がある。

人気店であった橋善は、遠方よりやって来たような客も含め賑わっていた。身なりのよい裕福そうな客を横目にドクトルはお猪口を傾けながら

「なに金持ちと我々とは、ただカネという死んでしまえば用の無い或る品物を持つ人間と持っていない人間だけの違いで、大した違いはない」

と、大きな顔をして、もぐもぐと天麩羅を咀嚼していた。

ドクトルの差し向かいには立派な紳士が二人座り、天麩羅を肴に差しつ差されつしていた。日本人同士のくせにちょいちょいと流暢な英語を挟みながら会話をしている。さては亜米利加帰りか、貿易関係の人間か。

紳士二人組は片方がでっぷりと恰幅の良い体格で、片方が痩せぎすのインテリといった容貌で、そのコントラストを観察しつつ、ドクトルは勝手にそれぞれの人物を、自分の知り合いである柏崎中学のなにがし先生に似て居るなどと腹の中で例えた。とはいっても語るべき友もおらず一人で天麩羅を嗜んでいると、ただでさえ箸の速いドクトルはあっという間に食を済ませてしまった。勝手に心の中で名付けたナントカ先生に勝手に心の中で敬意を表すると、銀座通りでそのまま寄り道をして幾つか買い物を済ませたドクトルは、風呂敷包が邪魔になってしまったので、まだ日の高い時刻であったがやむなく帰路についた。とにかくドクトルはせっかちなのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?