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時間つぶし

ところでドクトルは、午前中に訪れた三越より、夕刻に、神田にて開業している親友の山科医師を訪ねる旨電話をかけていた。公衆電話が普及するよりもっと前、市街の電話は「自動電話」と呼ばれていたが、全く自動の反対で、交換手がつないでくれていたはずだ。「電話で」という以外、特に描写がないが、電話代が安くもなかった時代、ドクトルは「銀座の三越から電話をかける」ということをやってみたかったのかもしれない。

上野動物園をドクトルなりに堪能して、腕巻時計を見ると時刻は三時。山科医師を訪ねる前に、もう少し時間を消費する必要があった。動物園を出た先には帝国博物館があった。四時に閉館のようだ。一時間で見切るにはなかなか建物も壮観だが、そう何度も東京に来られるでなし、ドクトルは博物館に入ることにした。

まずは表慶館に入った。表慶館とは、かつて、大正天皇の皇太子時代、その成婚にちなんで東京中から寄付金が集められ、献納された美術館である。「採光および陳列棚の配置振りに、多少の遺憾が無いでもない」と書いている。どうしてそう思ったのか書いておいてほしいものだが。ともあれ、大理石の円柱に金粉が底光りし、円形天井からは柔らかい光が差し込み、新しい建築物ながら欧州の古典的な建築物のように趣があった。

陳列棚ははるか向こうまで長く続いていたが、ドクトルは貴重な古美術などを特に吟味するでもなく、カツンカツンと靴音高く広い室内を闊歩した。そんな塩梅だったものだから、ドクトルの印象に残ったものは、マンモスの牙と、古来の刀の破片と、エジプトから渡来したミイラだけであった。

四時になり、閉館の鈴が鳴ったので、どのみち本来己のせっかちゆえに一時間もたたずに博物館に飽きたところを、なにか大義名分を得たような清々しい気持ちでドクトルは表に出た。霜を踏みしめて歩いたので靴に土がつきやすいのを少し邪魔に思いながら、歩くのが早いドクトルは上野駅まですぐに到着した。が、約束の友人宅へ訪ねるにも少し時間が早い。

そこでドクトルは、ただ電車に乗って、街並みを愉しむことにした。「上野より代々木、新宿を経て、万世橋へ至る、山の手の郊外巡りを実行する」とある。要するに山手線一周ということか。

駒込駅に差し掛かり、郁文館中学が近いなと思いだした。当時の柏崎における知り合いになぜか郁文館に縁のある者多く、いまでは名士となった数名の顔見知りのわんぱく時代を想像した。

大塚駅に来ると、留学生らしい志那の少女が二人乗り込んだ。それがまた極めて美人で、いずれが西施か楊貴妃か、と見とれた。実に、美人には目ざといようである。

信濃町に電車が停まると、日は傾きかけていた。薄紫に染まる空の中、少し向こうに、当時、大正天皇が居を移した青山離宮があった。ドクトルは胸中で拝んだ。続いて、四谷、市ヶ谷、牛込、飯田橋と来ると、いつしか街は電燈の海に変わっていた。

車窓から東京をぐるりと眺めているうちに日も暮れて、頃合いもよくなったので、いざ、とドクトルは神田の三崎町にある友人宅へ向かった。

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