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うつけ者

銀座から、宿にしている、弟が住む家のある横浜に帰る時間、まだ、西の空には赤々と太陽が高く架かっていた。そういえば、有楽町駅も見物しておこう、と、ドクトルは少し歩いて、銀座からではなく有楽町駅から電車に乗る事にした。当時、東京駅と新橋駅の間にあって、有楽町駅の建築物は、ドクトルの原文によれば「殆んど其の存在を疑わしむる程小規模の建築」であったが、その実、当時、有楽町エリアも既にビジネスセンターとして栄えていた。

ここでドクトルはひとつ失態を犯した。有楽町から電車に揺られ、歩き疲れが出て半ばうとうとしていると

「恵比寿、恵比寿、お降りの方は御座いませんか」

と車掌が呼ぶ。はて、東京⇔横浜間においてその駅名は聞いたことがない。

怪訝の眼をパチパチしながらドクトルは

「おいおい、この電車はどこへ行くんだい」

と、間が抜けた声で尋ねた。車掌は直接それに答えることはなく

「貴方はどこまでいらっしゃるんで御座いますか」

と、馬鹿丁寧な返しをしてきた。

「俺は横浜まで行くんだ」

「あ、それはいけませんね」

「これはどこへ行くんだい」

「赤羽行きです、困りますな」

「赤羽かい、おやおや、そいつは不都合千万だな」

間違って乗っておいて勝手なことを言うなよという顔付の車掌を尻目にドクトルは内省した。電車の横っ腹に、当着地点を示した掛札があったのに、よく見なかったのがいけなかった。また、品川駅停車中に、車掌が確かに「神奈川横浜方面行は乗り換えでございますよ」と言ったような気もしたがぼんやりして耳に入っていなかった。たかが電車の方角を間違えたくらいで大袈裟に落ち込んだドクトルは、次の停車駅の目黒駅ですごすごと下車した。車掌は、

「橋をお渡りになって向こう側からお乗りになるんで御座いますよ。品川でお乗り換えをお忘れになってはいけませんよ」

と、丁寧にドクトルに向って念を押した。丁寧で親切で誠にかたじけない。が、そこはかとなく馬鹿にする声色を勝手に感じ取り、寒々とした冬の夕刻であったが冷や汗を流し恐縮しながら、力なく跨線橋を渡って向こう側のホームへ駆け下りた。

上り電車に乗り換えたドクトルは、黙っておればいいのに切符を上り電車の車掌に示しつつ、欺かざる告白をした。無論、先ほどの失態のことをである。

「ふふ、お気をつけなくちゃいけませんな」

と、込み上げる可笑しさをこらえるような表情を含んで車掌が言った。

ドクトル談。「一難逃れて一難来たる。辛うじて前門の虎を撃退せしめた吾輩は、再び後門の狼によって皮肉の言葉を浴びせられ、乗換駅の品川へ停車するまでは、恰も警視庁の裏門からかつかつとして軋り出る二頭馬車にでも乗っているような気がした。」

重ね重ね曾孫は思うが、乗る電車を間違えたくらいのことの何がそれほどプライドを損ねることだったのか。ドクトルがつけた原文の小見出しも「うつけ者」と自虐的である。ドクトルの日中の行動から見るに電車の類に乗ることがそれほど大変なことだった様子でも無く不思議な感じがする。だがきっと、車掌との一つ一つの交流からも見られるように、現代からは想像できぬほど、何をするにも会話が発生し、だからきっと、一つ一つのことに、思惑も生じていたのだろう。田舎者と思われないだろうかと、一期一会の車掌の目さえも気にしていたドクトルの様子が愛おしい。


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