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見るものだけは贅沢三昧

レコード店、書店を巡り大好きなものを物色しながらも、なかなか思い切った買い物はできず、こりゃ「宝の山に入りながら手を空しくして帰る」ということだな、と明るく自嘲しながら、また「旅は始まったばかり、土産物は最後に買うものだ」とうそぶきながら、その足でドクトルは三越呉服店に入った。財布の紐を緩める段になると途端に我に返るのだが、華やかなものはとにかく見ないでは気が済まないのである。

デパートの元祖だった三越呉服店は、ドクトルの表現によれば、「栄華を誇る七階建の白亜宮」であった。階を上がるにはエレベーター、降りるには至便至楽のエスカレーター、食うに困れば食堂あり、自惚れ鏡の化粧室あれば、写真室あり、二階三階は呉服、四階五階には茶器や美術品が取り扱われており、金銀瑠璃真珠等の宝に目も眩むほどの様はまるで竜宮城。さらに屋上へ出れば、桃山式の庭園があり中に稲荷大明神あり、ボタンを押せばたちどころにエレベーターがやってきて、夢のごとく階下に出れば、靴にステッキと華やかなものは何でもあり。これで財布に金さえあれば申し分ないが、そうは問屋が卸さぬと、ドクトルはただ白亜宮をいそがしく行ったり来たりして例によって何も買わなかった。きらびやかな宝物の数々に感動する一方で、一人でこれをエンジョイする寂しさに、帰ったら柏崎日報にどんな風に書こうかとしか考えられなくなり、懐中の手帳にいそいそと様子を書きつけた。これは良い文が書けそうだと満足したので、ドクトルはまた口髭を引っ張りながら、何喰わぬ顔をしてスーッと表に出た。

ちょうどそこへ路電が停まったので、ドクトルは人波に押されて乗り込んだ。電車は満員に近い混雑ぶりであった。

「どうぞ中のほうへお入り願います、さぁどうぞ中へ」と車掌が言うところへ、

「中に別嬪でもいるのか」とドクトルは混ぜっ返した。何か、しょうもないことばかり言うのが好きなのであった。

「ええ別嬪が居りますよ、さあ早く中へお詰め願います」

と車掌にいなされ、白々しい顔でドクトルは一応おとなしく奥へ詰めた。

そしてドクトルは、神田川にかかる万世橋の停留所で下車した。ちょうど正午の時報が鳴り、ドクトルは朝から歩き回ったことによる空腹を自覚した。そこで橋を渡り、明神下の鰻料理店「神田川」へと入った。ちなみに「明神下 神田川」で調べると現代でもその名店は老舗として店を構えている。

店内に腰をおろすと、江戸風の中庭がしつらえられているのが見えた。奥座敷の脇床に、飼い馴らしのウグイスがホーホケキョと、冷えた冬の空気に凛と響いた。

中庭には数々の鳥籠が下げられており、カナリヤ、ジュウシマツ、文鳥などが雑居して、冷えた空気に差し込む優しい日光に浴していた。自分も小鳥道楽であったので、ドクトルはそこにいた鳥の名前を心の中で読み上げることをしばし愉しみ、鰻が運ばれてくるのを待った。

肝心の鰻の味であるが、ドクトルの記によれば値段が高かったという描写が目立ち、食べたほうの感想は「柏崎駅で売る上等弁当に毛の生えた位の鰻飯」とのことだった。値段が高くて落ち着いて味わえなかったのではないかと曾孫は想像しているが、この時代から既に老舗であった、東京の名高い店に入り、江戸からの粋な風情に触れる代金を支払ったのだと、ドクトルは自分を納得させた。老舗の店内で過ごす小一時間の緊張感はちょうど、山椒がビリビリと身体に効くようにドクトルには感じられた。

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