見出し画像

安穏なる熟睡

ドクトルが訪ねた横浜の西戸部には、ドクトルの弟がふたりと、片方の弟の妻の、計三名で暮らしていた。電話が一般的でない時代のこと、ドクトルは弟たちに、身を寄せる旨を連絡していなかった。敬愛なる先輩の金子氏には電報を打ったのに何故家族には連絡しないのか曾孫から見ると謎なのだが、兄がやってきて泊まると言えば断るはずのない時代背景でもあったのかどうか。

たったいま兄が訪ねてきたとは思うまい、さしずめ雪に埋没された越後の僻村で子どもと蓄音機に囲まれて過ごしていると思っているに違いないと思うと、ドクトルは少し悪戯めいた気分になって、すぐには来訪を告げず、どれどれと表から中を覗き込んだ。タングステンのランプに照らされた家の中の様子は、若干現実味がなく活動写真のように見えた。長火鉢を囲んで3人がいた。上の弟の敦氏は、嫁いできたばかりの新妻に何か冗談を言って笑っていた。下の弟の止信氏は、以前にクリスチャンの洗礼を受けていて、その影響か、たっぷりと髭を延ばし、その髭を左右に捻りながらやはり楽しそうに笑っていた。

よし、この平穏を壊してやる、とドクトルはニヤリと口角をあげ、そしてガラガラと千本格子の戸を引いた。チリンチリンと鈴が鳴った。

「オイ、敦!」

とドクトルは声を張り上げた。

どこのどいつが、すっかり暗くなった時間にやってきて、しかも不躾に自らの下の名前を呼び捨てにするのだと、敦氏は懐に手を入れたまま仏頂面で玄関の障子を足で開けた。

そこへ、何喰わぬ顔をして兄が立っているので敦氏は意表を突かれて瞠目し、次の瞬間大声で笑った。

「やあ、お前さんか!どうしたんだい、アハハハハー」

玄関が騒がしいのに驚いた新婦のサダ子さんも飛び出してきて、驚きと笑いの声が加わり、にわかに場が賑やかになった。


ドクトルが銀座で五色の酒を飲んだのは、まだ日が暮れかけたばかりの早い時間であったので、時刻はまだそれほど遅くはなく、三人はまだ夕食を済ませていなかった。越後にいて常に酒に慣れ親しんでいるドクトルと違って、弟ふたりは酒を嗜まなかったので、家の中に酒の用意がなかった。敦氏は新婦のサダ子さんに

「お酒にお蕎麦と何か刺身でも取ってこい」

と、おつかいを命じた。都会では女性運動の風潮が目立ち始めてきていても、一般の家庭の主婦にとってはこんな無茶振りに大人しく従うのが日常であるのだなと、自身の唐突な来訪によってそんな事態が発生していることに少しは引け目を感じながらも、ドクトルは思った。

そのサダ子さんのおかげで食卓に並んだ赤い鮪の刺身を肴に晩酌し、これまでの道中について面白可笑しく弟たちに語っていたドクトルは、ついに疲れを覚えた。ずっとハイテンションで、夜汽車に乗る前から友と一杯やり、夜汽車の中でも満足に眠らず、上野駅に着いた早朝から、浅草、有楽町、銀座と歩き回ってきたのである。ここに到るまでずっと元気なのが逆に呆れるくらいであるが昔の人は健脚だ。

「俺の寝る寝具はあるか」

と弟に尋ねれば、なんと間が良いことで

「今日、ちょうど郷里から夜具が届いたところなんですよ」

と下の弟の止信氏が言った。

「そいつは何て都合がいいんでしょう、だ」

自分も郷里から旅に出て来たばかりであるのに郷里の母の有難みを早速感じながら、ドクトルは厚い蒲団に横たわった。遊ぶことが大好きなドクトルであるが、僻村で医者をしていると急病患者の夜間往診がいつ必要になるかわからず、また子どもも四人になり騒がしい環境にいて、ここ数年は夜から朝まで深く眠り続けられる日は稀であった。大人しかいない、患者もいない安穏な室内にあって、ドクトルは、身体を横たえるやいなや、安泰な昏睡状態に陥った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?