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赤煉瓦の丸善

銀座で音楽鑑賞にまつわるあれこれを愉しんだドクトルは、京橋のたもとから特に目的地も特になく路電に乗った。すると次に目についたのは、赤煉瓦の丸善書店だった。ドクトルはいそいそと下車した。

店先には「縦覧御御意」(ご自由にご覧ください)の札がかかっていたので、ドクトルは意気揚々と敷居をまたいだ。しかしその手に、書物に手垢がつかぬよう店員によって手袋が嵌められたので、ドクトルはなんとなく調子が狂って間が抜けた顔つきになった。一応真面目に医学書でも見ようかと、ドクトルは洋書の並ぶ二階の陳列所に上がった。外来の書物ばかり並ぶ棚の前に立って、少し落ち着かない気持ちで自分のチョビ髭を引っ張りつつあたりを見廻すと、客の中には、「眼色毛色の変わった先生方も少なくは無かった」とのこと、外国の方に街中で遭遇するのは珍しい時代だっただろうが、ドクトルには何となく嬉しくなる情景だった。

ドクトルは職業柄ドイツ語を学んでいたが、ドクトルいわく、「吾輩は、独逸語は読めないけれど英語も同じく読めない者である」とのことであった。まだまだ翻訳が流通しておらず、知識の習得のためにはどうにか辞書を片手に原書を読まざるを得なかった時代、苦手意識の克服のために、できるだけ写真や挿絵の入った書物で知識を得るようにしていたが、そこに並んでいた書物をめくってドクトルはまた目を見張った。

普段、そう洋書を立ち読みなどできるような環境にいないので、ドクトルは新聞広告で調べて、わかりやすく書かれているという触れ込みの書物を取り寄せて知識の蓄積につとめていた。が、目の前にある書物と比べてみれば自分が普段読んでいる書の、文字だらけにして挿絵の少ないこと、それに引き換え、手元でめくってみた洋書に挿入された画像の克明なこと。世の中にはこれほどわかりやすく書かれている本もあったのかと、ドクトルは己の情報収集力の乏しさを悔やんだ。

しかしながら、その書物は結構高値であった。「欲しい書物は安く無く、安い書物は欲しくも無い」とドクトルはつぶやいた。また何も買わないで店を出る羽目に陥りそうだったが、店を出ようとするときに、昨日帝劇で見たハムレットの活動写真画報が売られているのが目にとまった。ドクトルはそれを掴んで代金を支払うと、つかつかと日本橋の通りへ歩き出した。

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