地蔵院雪観

哲学と仏教に興味があります。

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最近の記事

庄内の風と土と祈り 2024年6月号

春を飾った花々が散り、新緑が力強く鮮やかになる頃、田には清廉な水が注がれ、庄内平野はモザイク模様を徐々に埋めていくようにして、大きな1枚の鏡となる。 新たに水が流れ出すところには、流れに沿うように風が吹きこむようになるという。水は土を潤し、岩を磨き、風を呼び、場の空間をも浄化する。 法要の際に場を清める作法の中で「万物尖新(ばんもつせんしん)なり」と唱える。すると器の水は場を清め荘厳(しょうごん)する清浄水(しょうじょうすい)となる。 田の清浄水は鮮明に青空を映し、美しい

    • 庄内の風と土と祈り 2024年4月号

      友人の僧侶が数年前より「ひと息坐禅」というユニークな坐禅法を提唱している。 時と場所を選ばず実践できる呼吸法で、大きくゆっくり息を吸って、息を吐く時に微笑みながら「ほっ」とひと息を吐くのだ。すると、みぞおちが柔らかくなり、横隔膜が緩む。やってみると気がつくが、口をすぼめて息を吐くよりもずっと、口角を横に上げて笑顔で息を吐いたほうがお腹の底深くから息を吐き切ることができる。一息で緊張を緩め、場の空気を緩め、気持ちを緩め、心身を柔らかくすることができる。私も人前でお経を唱える前や

      • 庄内の風と土と祈り 2024年2月号

        この冬は暖冬で雪が少ないらしい。 山が一定量の雪を貯えることができないと、春先にはダムの水位も大きく下がってしまうのだろうかという懸念が今からある。 そうは言っても日増しに気温が下がり、寒々しく白を纏う深山幽谷。その中で過酷に暮らす鳥や獣や虫や植物たちはどのように振舞っているのか。 都会に暮らしていた頃、電車や飛行機の窓から立ち並ぶ高層ビルや街並みを何気なしに眺めていて、同じような作りの箱の中に、全く異なる内容の物語が一つ一つそこに生きられていることにふと気がつく。人々の何

        • 庄内の風と土と祈り 2023年12月号

          森の中を歩いていると、時に少し開けた場所にその森のヌシのような大樹が鎮座していることがある。 しっかりと自分の領土とそこで受け取れる光と水を確保し、他の植生との沈黙の生存競争に勝ち残った姿に確かな尊厳と親しみをおぼえる。 樹齢を千年も超えるような大樹は神として人々に祀られるようにもなる。彼らは極めて無口であるが、教わることは多い。 深く根を通して大地と契約し、枝葉をゆっくりと天に延ばし大空から光と水の恩恵を受け取る。 もし地球上の全ての樹々が、地表面のすべてに太い根を張り巡ら

        庄内の風と土と祈り 2024年6月号

          庄内の風と土と祈り 2023年10月号

          庄内人の宗教観・死生観はとても独特で、人は亡くなると出羽三山に籠もって仏道(修験)修行をし、三十三回忌まで勤め上げると今度は山の頂から天に昇り神になると信じられている。 出羽三山は「生まれかわりの山」とも言われる。森林限界を超え二千メートル近い標高の月山の頂からの眺望は、そこに立ってみればまさにこの世と冥界との境目であることが実感できる。 この深く高い山によって人は仏に成り、そして神として子孫を護ると信じられてきた。 お盆の時期には先祖たちが山を下り、すそ野に広がる森を抜け

          庄内の風と土と祈り 2023年10月号

          庄内の風と土と祈り 2023年8月号

          私たちは、堅固な大地に支えられて土の上に立ち、自由な風が吹きまわる大空のもと、この風景の広がりを臨む。 やわらかで自由な大空と、強く堅固なる大地。地球表面の境界の僅かなる”あわい”の場所に多くの生命が活動している。 土中を頼り地面に潜るミミズやモグラがいたり、大地を辞して大空に住処を見い出した鳥や羽虫がいる。土の恵みに根差しながら、天の光を志向し大空に腕を伸ばす植物たちがいる。 この自由と不自由とはざまで、私たちは海岸での棒倒しのように微妙なバランスで社会を構築している

          庄内の風と土と祈り 2023年8月号

          庄内の風と土と祈り 2023年6月号

          大型連休も過ぎるとモザイク模様のように田に水が注がれてゆき、やがて磨き上げられた1枚の大きな鏡のようにキラキラと大空を映す。 咲きほこった花たちが新緑に押され、ゆっくりと地に落ちるころ、大地に水が満ち渡り、庄内平野の気温は少し下がる。 天地に抜けるような景色とひんやりとした空気がそこに暮らす人の身心を爽やかにする。最上川の堆積物によりできたこの庄内平野。おそらく1000年前にはこの水田もなく沼地が一面に広がっていたことだろう。 「こんな田舎には何もない」と自嘲的な声をたまに

          庄内の風と土と祈り 2023年6月号

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          写真集『静謐探訪』五老峰で紐解く沈黙の世界

          写真集『静謐探訪』五老峰で紐解く沈黙の世界

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          庄内の風と土と祈り 4月号

          冬の静けさを破り、賑やかになる庄内の春。 ふきのとうがあちこちで伸び、虫たちは蠢き始め、雪解けの沢の流れはざあざあとやかましい。 山の稜線へと白雪を押し上げるように麓の緑は色濃く裾野を占有してゆく。 つめたい冬のおかげか、春の足音はより大きく響くようである。 静けさというのは喧騒により瞬く間にかき消されてしまう。 それが消えたことさえ誰も気づかないうちに。冬があったことさえ春は忘れさせる。 私たちもまた静寂の側から産まれてきて、つかの間、この静寂の上に広がる喧騒の中で、こと

          庄内の風と土と祈り 4月号

          庄内の風と土と祈り 2月号

          詩人の三好達治に『雪』という詩がある。 「 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」 ふりつむ雪は心を静かにさせ、庄内平野は水墨画のような一面の余白と、黒くけわしい山肌とのコントラストが深まる。 実際には強風が吹き荒れ「地吹雪」と呼ばれる地面から舞い上がる雪に視界が奪われる。雪にとざされ家に籠ることが多くなる季節であるが、この季節は、家に帰ってちゃんとくつろいで腰を落ち着けさせられる気がするのである。屋根に雪がふりつむ夜ほど、心の

          庄内の風と土と祈り 2月号

          「六道テレビの夢」

          ある時不思議な夢を見ました。私はなぜか見知らぬ病院に病院のベッドの上にいます。 そこは奇妙な病室で、窓もなく電気もない真っ暗な部屋でした。身体はベッドの上に拘束されており、両腕と頭だけが自由でした。両隣には私と同じようにベッドに縛り付けられた人がいました。どうも大部屋のようで沢山のベッドが並び患者が寝かされていました。そしてベッドで寝ている人の目の前には何故か、アームで固定されたテレビがあり、ずっとその画面を終日見させられていたのです。 数日もすると、それぞれの目の前にあ

          「六道テレビの夢」

          AIの進歩から考える仏教(加筆中)

          【AIの脅威】 ここ数年でのAIの進歩には驚かされる。少し前まで、Siriやアレクサやグーグルアシスタントと会話をしていて、もどかしさとともに「こいつらもまだまだだな」と思っていたのだが、最近「Chat GPT」という会話ができるAIの評判を耳にして、実際ににいろいろと質問を投げてみているが、その返答速度や正確性に大変驚かされている。AIは質問を受けるとビッグデータにアクセスし即座にその質問内容に関連する情報を集め文章として整えて提示してくれる。その回答内容はほとんどネット

          AIの進歩から考える仏教(加筆中)

          庄内の風と土と祈り 12月

          今年も白鳥の渡りが秋の深まりを確かなものにしている。 一つ一つパズルピースが埋まっていくかのように、庄内平野の風景は秋色へと染め上がってゆく。 それは寒気を切り裂く朝陽の鋭い差し込み。山の稜線から滲み出るかのような紅葉。収穫され露出した田園の地肌。 一羽の白鳥だけでは秋全体を表すことはできないが、無数なる要素の一つ一つが秋を支える。 秋には正体がない。 秋は永遠なるものに属し、遥かなるものに属する。どこからか現れ、過ぎ去ってゆくこの全体性に思いを馳せる時、望遠鏡を反対側

          庄内の風と土と祈り 12月

          庄内の風と土と祈り 10月

          「見える」ということは不思議なことである。 いま、この紙面を開き見つめているあなたの2つの眼玉が、あなたの視界を邪魔することは絶対にない。目玉が視界から姿を消してくれているからこそ、この夕焼けの写真を見ることができる。 自分の後頭部を直接に見ることはできないように「見える」ということが起こるには、「見えない視界の外側」があってはじめて可能となっているようなのだ。 視界が360度見渡せないからこそ、目の前の光景に注目することができる。 「見る」ということは、「これ以外を見

          庄内の風と土と祈り 10月

          庄内の風と土と祈り 8月

          この土地では、ふとした所でよく鳥居を見かける。 田園の中にポツンと建つこの小さな社(やしろ)は、まるで庄内の遥かなる大地と大空の広がりを象徴しているようにも見える。 この象徴に手を合わせる時、遥かなるもの、果てしないものとどこかでつながる気がする。 それは私たちが、遥かなるもの、果てしないものの側からやってきたからなのだろうか。 庄内平野の広がりと奥行きは、このレンズの画角に納まりきらない。また、言葉でも語り尽くせない。自分自身を含めたこの遥かな広がりを私たちはすべて

          庄内の風と土と祈り 8月