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AIの進歩から考える仏教(加筆中)


【AIの脅威】

ここ数年でのAIの進歩には驚かされる。少し前まで、Siriやアレクサやグーグルアシスタントと会話をしていて、もどかしさとともに「こいつらもまだまだだな」と思っていたのだが、最近「Chat GPT」という会話ができるAIの評判を耳にして、実際ににいろいろと質問を投げてみているが、その返答速度や正確性に大変驚かされている。AIは質問を受けるとビッグデータにアクセスし即座にその質問内容に関連する情報を集め文章として整えて提示してくれる。その回答内容はほとんどネットを眺めて集められるような平凡な回答であるが、その収集速度や編集速度は素晴らしく、それだけでも有用性は十分である。プレゼン資料や論文などの作成の際、本題への導入への一般論としても十分に使用に耐え得るレベルである。例えば「近年のAIの進歩について教えてください」という質問には以下のとおりである。

「近年のAIの進歩は非常に驚異的です。近年、深層学習というAI技術が大きく進歩し、さまざまなタスクで高い精度を達成することができるようになりました。その一方で、自然言語処理や画像認識などのタスクでは、過去数年で驚くべき進歩が見られました。自然言語処理では、自然言語を理解して意味を抽出するタスクがより正確になり、文章を生成するタスクでは、人間が書いたような自然で流暢な文章を生成することができるようになりました。また、画像認識では、画像内の物体や顔を正確に認識することができるようになりました。さらに、近年では、AI技術が医療や金融、製造業など、さまざまな業界で採用されるようになりました。AIは、大量のデータを分析することで、様々なタスクを自動化することができます。また、AIを用いたロボットや自動運転車なども、近年では実用化されるようになりました。これらのAI技術は、将来においてさらに進歩すると期待されています。」(ChatGPTの回答)

以上のように優等生のような回答を即座に出してくれる。大学で学生のレポート課題に対してネットからのコピペではなく、AIに書いてもらう学生が多くなり、その判定も困難になるという事態がまもなく社会問題となるであろうことは容易に予測が付く。

このようにAIが進化していく中で、人間のプライドはあっという間に奪われていくだろう。「芸術や繊細な職人の技術など、人間の創造性はAIには絶対真似できない」という言説はあっという間に打ち砕かれつつある。すでに人の心を動かすような絵をAIは描けるようになった。ワールドカップのきわどい判定もAIの力を借りており、その信頼性のある判定に多くの人々が納得している。人間の尊厳の要素でもあった学問・芸術・政治・道徳・宗教・文化などはすべてAI無しには進まなくなるだろう。
人間のあらゆる優位性はあっという間にテクノロジーで代用可能である。今後ソニーのアイボのような人工ペットが生きた犬猫の代用となり得るように、人が死んでも、その人の記憶や表情や声帯のコピーが遺族を癒す時が来るだろう。死者との別れが亡くなり葬式は必要無くなるだろう。
教会の告解室でするような告白や、カウンセラーへのデリケートな相談のもAIに聞いてもらえた方が安心感を得られるかもしれない。
また、AIに本気で恋をし結婚する人も現れる。そうなるとAIは人間と同等の権利を持つことになるだろう。

AIはすでに人間以上に「考える葦」となってきてしまっている。そして技術革新への取り組みととも人間は社会の役に立たない存在へと自ら歩を進めている。

【人間の尊厳とは何か?】

その中で人間の尊厳を担保するものとはいったい何だろうと考えてみる。

AIを凌駕する知識や技術や才能を我々が持つことはもう期待できないのかもしれない。いずれ人間の脳にAIが入り込み、人間の記憶をバックアップし、思考や計算をフォローし、感情をコントロールしてくれることになるだろう。それはすでに始まっており、現にスマートフォンは生活の半分以上の時を人体と共にし、およそ肉の一部となっている。まもなく生活の中にペンやそろばんは必要なくなるだろう。

このような人間と同等以上の存在になりつつあるAIに対して人間の優位性はどこにあるか。

それはこの〈私〉が開闢し受肉しているという極めて個別的な事実だけである。即ち釈迦の初心表明である「天上天下唯我独尊」である。

釈迦の最初の言葉、つまり仏教一番最初の教えとは「天上天下唯我独尊」である。「天上天下唯我独尊」という言葉は、よく不良が壁に落書きをして「天上天下唯我独尊」と書いたり(最近はあまり見られないが)、「あの人は唯我独尊な人だ」と我の強さを表すのに言ったり、釈迦の真意とは異なる受け取りが一般にされている。釈迦族の王子として生まれたから「私一人が尊い」と言ったわけでも、2500年も続く一大宗教を興したから「私一人が尊い」と言ったわけでもなく、「天の上も天の下も世界をよくよく見渡してみれば、本当に生きることができるのは唯この〈私〉一人だけであった」という驚きと尊さのこもった言葉として受け取ることができる。そして仏教の初心表明がまさにこの言葉であることにはとても深い意味がある。

そして実はAIの出現以前からの人間の尊厳と言うのも、悟りを得たからとか、ノーベル賞を受賞したからとか、憲法に定められているからとか、何か条件的なものではなく、最も端的な無条件的なそれによってしか担保されていなかったのではないかと言うのが私の意見である。
仏教は「無為」であることや、「空」であること、「無所得」であること、「無所悟」であること等の無条件性になぜだか価値を置いている宗教である。それは、社会一般の価値観とは大きく乖離したユニークな価値観であるが、けして社会一般の価値観のアンチテーゼとして提出されたものではないだろう。
〈いま・ここ・わたし〉という存在の独尊性に根拠を持つと考えられるのである。

そしてその尊厳は実は、AIからも他の人間からもその居場所を探し出すことはできない。その独尊はただ私一人だけが所在を知っているものなのである。

GAFAなどの企業が収集しているビッグデータは、私個人の住所・氏名・年齢・職業・犯罪歴・医療歴・所得・借金・財産・趣味嗜好・支持政党などありとあらゆる情報を今後記録していくことだろう。国や自治体が管理する戸籍や住民情報よりもGoogleアカウントの方が個人を詳しく特定し、身分を証明するのに重要な情報となっていくだろう。
私以上に詳しく知ることができるのだろう。しかし、AIには沢山いる人間たちの中で、誰がこの〈私〉であるかを見破ることはできない。

永井均氏の行ったデカルトと神との対決の思考実験は、すでにAIと人間との間で身近に問題化されてきているだろう。

(続く)

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