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庄内の風と土と祈り 12月

今年も白鳥の渡りが秋の深まりを確かなものにしている。
一つ一つパズルピースが埋まっていくかのように、庄内平野の風景は秋色へと染め上がってゆく。

それは寒気を切り裂く朝陽の鋭い差し込み。山の稜線から滲み出るかのような紅葉。収穫され露出した田園の地肌。
一羽の白鳥だけでは秋全体を表すことはできないが、無数なる要素の一つ一つが秋を支える。

秋には正体がない。
秋は永遠なるものに属し、遥かなるものに属する。どこからか現れ、過ぎ去ってゆくこの全体性に思いを馳せる時、望遠鏡を反対側から覗き込むかのように、あるミクロな一点が非対称的に浮かび上がってくることに気付かされる。

初秋、ある朝の散歩中、雨上がりにかかる虹と、渡り鳥の飛来がちょうどこの日のこの時間に偶然重なった。
このような光景は、庄内が田園風景となる遥か昔から何遍も繰り返されてきたことであろう。

本当に驚かれるべきことというのはさらに別にあるといつも思う。
これが実際に驚きや奇跡となるためには、その場その時にこの私が立ち会わなければならない。
遥かなるもの、永遠なるものは、遥かなるまま、永遠なるままには現前しない。
それはかならず「いつか」「どこかで」「だれかに」具体的なたった一点に受肉し現前する。それは「いま」であり「ここ」であり「わたし」という一回性であり、他の誰も見ることができない一枚の構図である。

永遠の中の一瞬。森羅万象の中の一隅。無数の人間たちの中の一人。プールの栓を抜いた時のように世界はとある一点〈今・ここ・私〉へと現前している。この尊い一点が生じなければ、何も無いのと同じなのだ。

およそ2500年前、ある赤ん坊が生まれてすぐにこの事実に驚き、そしてこう叫んだという。
「天上天下唯我独尊」と。

※こちらの文章は庄内の無料地域情報誌「BLOOM」2022年12月号に掲載されました。


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