庄内の風と土と祈り 2023年6月号

大型連休も過ぎるとモザイク模様のように田に水が注がれてゆき、やがて磨き上げられた1枚の大きな鏡のようにキラキラと大空を映す。
咲きほこった花たちが新緑に押され、ゆっくりと地に落ちるころ、大地に水が満ち渡り、庄内平野の気温は少し下がる。
天地に抜けるような景色とひんやりとした空気がそこに暮らす人の身心を爽やかにする。最上川の堆積物によりできたこの庄内平野。おそらく1000年前にはこの水田もなく沼地が一面に広がっていたことだろう。
「こんな田舎には何もない」と自嘲的な声をたまに聞くことがある。この広がりには何もない。だからこそ奥行き深く、そしてやさしい。
世界はオセロの駒を裏返すようにして意味と価値で隙間なく埋め尽くされ続けている。物を詰め込み過ぎたカバンのようになっている都会から押し出されるようにしてやって来た私にとって、この意味のない広がりを臨んで日々を生活できることは大きな癒しでもある。
この地上に何もない余白があったからこそ、私たちはこうして身体という質量を持って、その身の丈分だけ地上の空間を占有する。何もない空間とは「あなたはそこに居ていいんだよ」と私の存在を祝福する重要な基底となる。その場所に在ることを許可してくれる原初的な慈悲でさえある。 これが「何もない」ということの、偉大で、根源的な功徳であろう。仏教ではその事を空と呼んだりする。あることよりも、無いことから価値を見い出す視座だ。 実は「あること」に感謝できるようになるにはそれが「無いこと」を意識しないとできない。感謝とはいつだって「ないこと」の方にちゃんと向き合わないと出てこない態度なのだ。
「有り難い」という言葉の語源にはこの余白への存在論的な向き合いがある。 庄内平野には何もないという大らかさがある。
これこそがありがたい。

撮影地:鶴岡市羽黒町

※こちらの文章は庄内の無料地域情報誌「BLOOM」2023年6月号に掲載されました。

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