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わたしはずっと推しのことが好きで好きで苦しかった

ずっとずっとずっと、推しという存在から、認知してもらうことに憧れていた。
その他大勢のファンのひとりじゃなくて、顔と名前をおぼえてほしい。目が合った瞬間に「あっ」という表情をしてほしい。
友人になりたいとか、恋人になりたいとか、そういうことじゃない。
ファンというくくりのなかで、誰よりも特別なファンになりたかった。
ミュージシャンや声優さんやスポーツ選手。
推しが出来るたびに、そんなふうに感じて、そうなれないことが苦しかった。
滑稽なほどに欲深いオタクだった。
わたしの容姿が、ぱっと見た瞬間に心に焼き付いてしまうほど、去っていったあとにきらきらとした残像が残るほど、きれいな女の子だったら、その願いは、簡単に叶えられたんだろうか。そう考えるのは虚しかった。
それでも、そんなの夢物語だよって割り切ることができなくなってしまうほどの、奇跡のようなことが、たまに起こる。
大勢の中で、わたしだけを見つめて手を振り返してもらえたことがあった。配信の中で「こんなお手紙をいただいてね」とわたしの書いたファンレターの内容にふれて、私信のようなメッセージをもらえたこともあった。そのたびに、期待してしまう。
神さまのささいな気まぐれを、運命だと盲信するたびに、心がグチャグチャになった。

ある日、ふいに、その願いを叶えてくれる「推し」が現れた。
彼は、ムード歌謡を歌う男の子だった。
彼の活躍の場は、全国各地でのコンサートやディナーショー、歌番組、そして、デパートやショッピングモール、老舗レコード店での歌唱キャンペーンイベントだった。
歌唱キャンペーンイベントでは、コンサートのように、特設ステージでの生歌唱を無料で聴くことができる。CDを買えば、記念撮影と握手をすることもできる。
はじめてイベントに参加して、彼と握手したときのことを、いまでもおぼえている。
彼は、わたしの顔をみつめて「目が大きい」とおどろいたように笑った。リップサービスだということは、わかっている。それでも、真正面からそんなふうに面と向かって言われたのは、はじめてだった。うれしかった。
二回目の参加で、名前を聞かれた。答えると「じゃあ、ひーちゃんだ」と言われた。
その日からずっと、彼は、顔を見るたびに、そのあだ名で呼びつづけてくれた。
このアカウントの名前もそうだけど、わたしはいまだに、彼がつけてくれたこのあだ名を捨てることができない。
演歌歌謡曲の界隈では、そういったスタイルのファンサービスは珍しいことではない。
ファンひとりひとりと手厚く向き合い、CDを手売りし、ドブ板選挙のようにチャート1位を狙い、手間暇かけて、ひとつの曲を大きなヒットへと育てていく。
業界が提供している従来のサービス形態と、推しから認知されたいというわたしの需要がかっちり噛み合ったという、ただそれだけのことなのだろう。
それでも、はじめて彼の歌を聴いたときに、その声に、ぱあっと瞳の奥が開いて、視界がどこまでも広がっていくように感じたのは、本当だった。嘘じゃない。

彼の歌を聴きたくて、現場に足を運ぶたび、いろんなことがどんどん見えてくる。
おそろいの法被を着て、ペンライトを持ち、最前列をずらりと占拠する古参グループ。
写真撮影後、現場スタッフから剥がされても離れたくないと、その場にふんばって泣く、ロングヘアの大人しそうな女の子。
遠くからファンを指差して、あの豚ちゃん、あんなピチピチのワンピース着て恥ずかしくないのかしら、といじわるに笑う、わたしの母親ぐらいの年齢のご婦人たち。
正直、ばかみたい、と思ってみていた。
どいつもこいつもばかみたい、あなたたちとわたしはちがうんだから、と見下しながら、背筋を伸ばしてひとりきりでつんとしているわたしも、そのおろかな空気を構築しているばかみたいなファンのひとりだ。
そんなふうに、ねっとりと濃く淀んだ空気のなかで、彼が歌う都会の夜のムード歌謡は、驚くほどに映え、そして馴染んだ。
人間関係もなんでも、指一本で消去ができてしまうドライな時代の中で、じっとり湿った愛憎がマーブル模様のようにぐるぐる渦巻く空間の雰囲気は、どこか、懐かしいような、色っぽいような、猥雑な味わいがあった。

推しからの認知されるということは、そこに「関係」が生まれるということだった。
推しである彼は、ただただ夢を見せてくれる架空のキャラクターではなく、思考があり、感情がある、ひとりの人間だということを、あらためて強く感じた。
自分勝手な理想像を投影して、気持ちのままに言葉をぶつけていい存在ではない。
手の届く距離にいるということは、この手で彼を傷つけてしまう可能性だって存在するということだった。
誰かを傷つける感情は、悪意だけじゃない。
好意だって、相手を傷つけることもあるし、不快にさせることもある。
わたしの「好き」は、彼を疲弊させていないだろうか。怖がらせてはいないだろうか。
恋人や友人であれば、ともに時間を過ごしていく中で、ゆっくりとその答え合わせをすることができるけれど、わたしたちは恋人でも友人でもなかった。
わたしは、彼が「推し」として発信する言葉しか得ることを許されていなかった。
わたしは、いつも不安だった。
彼から、ふいにぽんぽんと頭を撫でられたときや、猫のような目でニッと笑ってもらえたときにだけ、ああ、嫌われてはいないんだ、と安堵することができた。
もっと気楽に好きでいられたら、どんなによかっただろう。好きになればなるほど、好きでいることが苦しくなっていった。

彼にとって、歌うことは、自己表現であり、生きるための「仕事」でもあった。
彼はいつでも、売らなければならないCDと、集客の必要なイベントを抱えていた。
精一杯頑張りますので、応援よろしくお願いいたします、と、必死に頭を下げる彼の姿を見るのは、いつもやるせなかった。
近場のイベントには、予定のやりくりをしてなんとか駆けつけることができても、遠征をすることは、どうしても難しかった。
わたしには、わたしの守るべき生活があり、責任があった。
彼の行くところならと、北海道から沖縄まですべてのステージを追いかけて応援しているファンがいることは知っている。
わたしは彼女たちのように人生の優先順位の一位を、彼にすることができなかった。
彼のことを、胸を張って好きだと言うことができるのは、お金を使って、時間を使って、目に見えるかたちで愛を示した彼女たちだけだと思うと、彼に会いたいという気持ちは、どんどんどんどん、遠くなっていった。
彼の望むかたちでの愛を示すことのできないわたしは、いまさらどんな顔をして、会いに行けばいいっていうんだろう。

この物語に結末なんてない。
ひとりきりで書きなぐったこの言葉たちは、これからどこに流れ着くんだろう。
顔も声も知らないどこかの誰かに、ぎゅっと抱きしめるように、受け止めてもらうことができたら、わたしは楽になるのだろうか。

たとえそれが、彼じゃなくても。


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