職場の近くにパン屋がある。 小さな店だが人気のようで、雑誌のパン特集にも何度か載っていた。 一番人気はフランスパン。フランスからの留学生が、故郷の味を求めて買いに来るという触れ込み。 焼き上がるのは開店直後の早朝ではなく、昼頃なので、休憩時間になって職場から飛び出すと、その香りに打たれたようになる。 そして買う。 毎日のように買ってしまう。 もちろんフランスパン一本をまるまる食べきれない。 食べさしを家に持ち帰るが、翌朝になったって食べきれない。冷凍する。 私の一人暮らしの家
メルカリの梱包しようとコンビニ行ったらスティックのり3割引になってたからついでに買った。コンビニってたまに唐突にお得。 のりが青いやつで、どこに塗ったかわかって、でも貼らないまま乾いたら色が無くなってべたつかずにサラッとするやつ。 発送終わって片付けしてるときに、「いや、のりとか最近全然使わんやろ」となったけど、家に一本くらいはあったほうがいいのかもと思う。郵便に出す前の封筒の封するときとか、のりいるじゃん。いままでどうしてたのかっていうと郵便局で切手買ってそのまま郵便物も預
友人が雑巾を買った事がきっかけで彼氏と別れたという話を聞いた。 雑巾くらい自分で縫えないのかとか言われたらしい。 使い古したタオルだとか服とかで作れって事なんだろうか。 まあ、そういうことを始まりに、日常生活のいろいろな場面において、意識の違いがあって別れるに至ったらしいが、諸々を話している間彼女が泣いていた事は確かだ。 恋人と別れた事が悲しくて泣いていたのか、悔しくて泣いていたのかはわからない。 彼女は「私はたとえタオルだろうと服だろうと、自分が働いて買った物を雑巾なんかに
みんながマスクをつけるようになって、僕は学校に行けるようになった。 誰も僕に気がつかないし、僕はどこにでも自由に出入りできるようになった。 最寄駅から何駅か先の、降りたことのない駅に降りて、駅前を適当に歩く。 そういう時に、たまにマスクをしばらくの間外してみる。 なんだか露出狂みたいな気分だ。 僕は学校や地元ではもうけして晒さない顔を露に、背中がぞくっとするまで知らない街を歩き、気が済んだらマスクをつけて家路に着く。 朝焼けみたいな夕暮れがとても気分がいい。 僕はこの舞台に、
紅生姜の天ぷらが食べたい。 地元の、歯抜けのおばさんがひとりで売ってる、あの紅生姜の天ぷらが食べたい。 耳が遠いのか、そもそも日本語がそんなに得意じゃないのか、会話が成立したことのない、あのおばさんが作ったやつを。 屋根もない軒先に大ぶりの箱一つ出して、その上に天ぷら並べて出しただけで開店って、なんて手軽な仕事してんだって思ってた。 でも今ならあのおばさんのことを心から尊敬できる。 自分の仕事はなんだ、って聞かれて、これですと返せる勇気を、あのおばさんは持っていた。 今の
大学生のころ、居酒屋でネズミを見たことがある。 四条駅近くの地下の和民で、店の中心に位置する階段の手すりに、そのネズミはいた。 お手玉のようにまるまるとしたネズミはガヤガヤとした店内の中、身動きひとつせずにいる。ドブ色の体が周囲と同化し過ぎている。 「あれ……ネズミですよね……」 ぽそりと呟くと、一瞬でそれが伝播し、色めきたった。 自分の足元に居ると怖いが、お立ち台みたいなところに居るのは可笑しい。 そんななかでもネズミは動かない。 傍から男子大学生風の店員が小さ
大きくなったらサイボーグのお母さんを作ろう。急にいなくなったり殴ったりしてこない、優しいサイボーグのお母さんを作ろう。 たしかそんな話を俺とあいつは施設の2段ベットで話していて、そして俺はなるべく金持ちになろうと勉強して就職して、 でもそれくらいに未来になっても、まだサイボーグは売られていなかったから、 良いロボット掃除機とドラム式乾燥機つき洗濯機と食器洗い乾燥機とホットクックを買って、あと週に2度ほど仕事中に家事代行を頼んだ。 ものすごく幸せになった。 テロとか事件に巻
一年以上家出をしていた弟の居場所がわかったと、父親からLINEがきた。 一年前大学受験に失敗した弟は、父親が勧めた滑り止めに進学するのを拒み、実家で一世一代の大立ち回りをし、ご近所さんの通報で警察出動、人生初パトカーに乗せられ警察署でイケメン警察官に叱られ逆上、一晩牢屋で過ごした。 翌朝迎えに行った父親と帰りにすき家のドライブスルーに立ち寄っている最中に姿を消し、以来父親はショックのあまり牛丼が食べられない体になっていた。 弟はこの一年間、家の目と鼻の先にある貸しトランク
山岳鉄道でもないのに、山の中を通る路線がある。 あえてその路線に乗らなくても家に帰れるから、今まで乗らなかった。 仕事先から直帰になって、その関係上初めて乗ってみると、運賃の高さに驚いた。 一緒に乗っていた地元民の友人は「山の中を走っているので」と言った。 たしかに、少し斜め上に登っているような気すらする。 そしてものすごく遅い。ロードレーサーのほうが絶対に速い。 「山の中を走っているので」友人は言う。 「少し無理をしているんです。」 夕暮れどきなのに、乗客はまるで終電間際か
ハチドリに蜜を吸わせるために進化した花があるという。 空中でハチドリが吸いやすいよう、花の咲く角度を変化させていったのだそうだ。 「そういうのって、ハチドリが居なくなったらどうするんでしょうね。」 しばらくは構わないんじゃないだろうか。 というか、気がつかないかも。 数ヶ月経って、一年経って、もしかしてと思ったときにはすでに遅いっていうような。 「まるで離婚みたいに喩えるじゃないですか」 運命の相手を失うっていうのは、往々にしてこういうものなんじゃないか。 ハチドリがいたなら
引越しのとき、「植物は運べないので」と、プランターは運んでもらえなかった。 ベランダにあった唐辛子のプランターだ。 仕方がないので透明なビニール袋でプランターそのものの部分は覆って、 僕は唐辛子のプランターを抱えたまま新幹線に乗った。 街中でたまに見かける花束を抱えている人の何倍も目立つ。違和感の塊だ。 まだ実がなる季節じゃなかったのでただの植木だと思われてたらいいなと思った。 植物はそもそも動かない。 物理的に動けないのに生きたり繁殖しないといけないから、強い生き物になっ
「子どもの頃、父親が西瓜に輪ゴムを100本はめて、破裂させて見せてくれた」と彼女から聞いて、僕は彼女の実家に行くのが心底怖くなった。車を止める。 国道沿いのマクドナルドのテーブルで僕が頭を抱えて1時間が経った。 向かいでスマホで動画を観ながら僕が再び車に乗るのを待っていた彼女だったが、スマホの充電が惜しくなってきたのか、視聴をやめた。 「子どもを笑わせるためだけに西瓜爆散させる親とか、俺太刀打ちできないよ」 「別に太刀打ちしろとか言ってないじゃん」 「西瓜爆散したらめちゃくち
にんじんで刺された。 遂に刺されたかと思った。 彼女に背を向けているときいつもどこか想像してる。 キッチンでサラダを作っていて、彼女の気配は感じていた。 立っている。何も言わずただ僕の背中を見てる。 にんじんは僕の背中にめり込んで、ふたつに折れて床に転がった。 にんじんといえど痛い。 中学の時掃除の時間にふざけてて、箒で突かれたとき並に痛い。たぶん内出血くらいはしてる。 僕は小さく呻いてしゃがみ込んだ。 セロリを切っていた僕の手には包丁が握られている。 友達に、常に「早く別
缶コーヒーが他の形態のコーヒーよりも優れているところは、人に投げつけられるところです。 病院のベッドの上から動けない父は、僕に自動販売機の缶コーヒーを買って来させ、手渡されてから僕の頭に向かって缶コーヒーを投げつけた。 病気の身の上でも、砂糖と牛乳もどきの粉が山程入った、もはや毒でしかないコーヒーをせがむもんなんだな、やっぱりこの人は低俗だなと思っていた。 いつも父は僕の想像の斜め上をいく。 むしろ、僕の想像力が足りていないのかもしれない。 たぶん生まれてからこのかた、ずっと