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長編小説「きみがくれた」下 ①~㉚

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長編小説「きみがくれた」下です。①~㉚まであります。 ここまでお読みくださりありがとうございます。 この物語ももうすぐ終わりを迎えます。 どうぞ最後までお付き合い頂けましたらうれ… もっと読む
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長編小説「きみがくれた」下ー①

「超えて、届け」  目が覚めた時、雨音はもう止んでいた。  辺りは真っ暗で何も見えない。  朝までにはまだ時間がある。  暗闇の中、部屋のドアをすり抜けて渡り廊下へ出ると母屋のリビングから明かりが漏れていた。  まだ濃く残るコーヒーの匂いの中を真っ直ぐに進み、店へ降りる。  外に出ると生暖かい風がゆるく吹いて、見上げると夜空は怖いくらいの明るさだった。  青黒く、くっきりと澄み渡る静かな空には、雲一つない。  いつもの時間ではないけれど、足はもう動き出していた。  不

長編小説「きみがくれた」下ー➁

「執念」  空が夜から朝に移り始める頃、あの眩い光景は跡形もなく消えていた。  辺りに立ち込める甘い香りだけがその存在を確かに残している。  傍らに全ての力を使い果たしたように眠る霧島の小さな寝息。    霧島がここにいる。  閉じた瞼に鼻を寄せ、昔よりもすっきりと短い前髪にその白い額に鼻先を擦る。  今、ここに霧島がいる。  髪の感触、素肌の匂い、腕の温もり。  指の形、手の大きさ、首の温度。  そのひとつひとつを感じながら、頬ずりをする。  朝焼けが野原一帯

長編小説「きみがくれた」下ー③

「春風」  前よりもずっと背が高くなった霧島の肩越しに、遠ざかる山道を眺めていた。  昨日はこの辺りまで香っていたあの甘い果実のような匂いはすっかり薄れていた。  月見山を降りて霧島が最初に向かったのは、ばあちゃんの家でもアパートでもなかった。  畑と空地ばかりの‘椴の森’を後に、進んだ先は‘欅の森’だった。  “コジャレたモデルルームみたいな住宅で出来上がっている街”と亮介が言う通り、“絵に描いたような街並み”が続いている。  その先に見覚えのある大きな欅の木が見え

長編小説「きみがくれた」下ー④

「記念日」 「さぁ、どうぞ、上がって」  マリコに促され、霧島は玄関先にギターケースとナップザックを降ろした。 「さぁ、どうぞ」  霧島に抱かれたまま招き入れられ、リビングへ通された。  正面の窓辺にはテーブルの上いっぱいに白い花が飾られている。  陽だまりを受ける山盛りの白いふわふわの大輪の花―――その手前には見覚えのある写真がいくつも立て掛けてある。  マリコは水色の布袋からソーダ水のペットボトルを出すと、写真の脇にそっと置いた。 「どうぞ、こちらに座って」

長編小説「きみがくれた」下ー⑤

「ヒーロー」 「それからすぐに夏休みになって、あなたが初めてここへ遊びに来てくれた」  マリコはまるですぐそこに居るマーヤと3人で話しているように見えた。  あの日のことはよく覚えているわ――。 “ぼく、大きくなったらここに行くんだ” 「あの絵―――この子が幼稚園で描いてきた‥あの絵を、あなたはただ一人、理解してくれた‥」 『ぼくのいきたいばしょ』 “うれしかったなぁ” 「実はね、私も、夫も、幼稚園の先生方も、大人は全員あの絵が宇宙の何かに見えたの。お月様と、

長編小説「きみがくれた」下ー⑥

「託された思い」  玄関で靴を履き、ナップザックを肩に掛けた霧島を、マリコはふと何か決意したように呼び掛けた。  霧島はギターケースを担いだままマリコを待った。  しばらくして2階から降りて来たマリコの手に、僅かに見覚えのある色が見えた。  それは透明な袋に丁寧に納められ、けれど昔見たそれとはだいぶ様子が変わっていた。  その瞬間、霧島の指先がびくりと動いた。 「これを、あなたに。」  マリコの両手の中に納まる赤茶色の塊。 “君に見てもらいたいものがあるんだ”

長編小説「きみがくれた」下ー⑦

「夕暮れの風」  外はもう日が傾きかけていた。  まだ水色の残る空の遠くに、薄ピンク色の雲が霞んでいる。 「長い時間、お邪魔しました」  霧島は玄関先のスロープでマリコに深く頭を下げた。  片手で抱き上げられ、見上げると、まだ空に溶けそうな細く白い月が浮かんでいた。 「また、いつでもいらしてね」  霧島が歩き始めると、マリコはその後についてそう言った。  庭先で霧島は振り返り、もう一度軽く頭を下げた。  土肌ばかりの庭を進み、古い木戸に手を掛ける。  通り

長編小説「きみがくれた」下ー⑧

「音源」  ゆるやかな風がそよぐ桜の森公園は夕闇に包まれて、門の内側は人影もまばらだった。  桜の葉音が耳を心地よくくすぐっていく。  少し前まで薄ピンク色に染まっていたこの場所は今ではその面影もない。  黒いベンチに腰を下ろし、霧島はナップザックを膝に乗せた。    取り出したのはマリコから受け取ったあの透明な袋だった。  その僅かに残る青色に目を落としたまま、霧島は苦しそうに顔を歪めた。 「――うぅ‥――」 “霧島” “僕これに付けるよ” 「ううぅっ―――

長編小説「きみがくれた」下ー⑨

「話したいこと」  店の窓にはまだ明かりが見えていた。  霧島は駐車場の隅でしばらく立ち止まり、ガラスの向こうを見つめていた。  その視線の先にはいつものようにカウンターの中に座るマスターの姿があった。  傍らには紺色のマグカップ。   カラララン・・・コロロロン・・・  扉の向こうから夜コーヒーの匂いが香った。    顔を上げたマスターの表情は一瞬で固まった。 “まるで本物みたいだと言うような目”に、霧島は静かにこう言った。 「こんな時間まで営業?」  マス

長編小説「きみがくれた」下ー⑩

「このまま、ずっと」  お風呂の部屋のドアが開いて、出て来た霧島を見上げると、片手で楽々と抱き上げられた。  タオルを掛けた肩に濡れた髪の先から雫が垂れる。  リビングを通りかかった霧島に、マスターがキッチンから声を掛けた。 「2階の部屋、使えるようにしてあるよ」  アパートの部屋をそのまま移動しただけだから、ベッドもあるし布団も昨日干したばかりだよ。  けれど霧島は昔使っていた“納戸”を使わせて欲しいと言った。  階段の下に放られた濡れたタオルの側で霧島の動きを見て

長編小説「きみがくれた」下ー⑪

「遅く起きた朝」  店へ続くドアから覗いて見ると、店内はあちこちで賑やかな声が上がっていた。  その中をマスターが忙しそうに料理を運んでいる。  霧島はそっとドアを閉めた。  母屋のリビングへ続く廊下で足を止め、霧島はガラス戸の向こう側へ目を向けた。    中庭はいつもと変わらない。  大きなニレの木、土の上に張り出した太い根、幹にできたくぼみ。  まだ色を付けていないばあちゃんのアジサイ、風に茂る薬草の群れ。  芝生の隙間には今年も数を増やしたスミレがいくつも顔を出

長編小説「きみがくれた」下ー⑫

「忙しい一日の始まり」  サンドイッチのバスケットが頭の上で揺れている。  霧島は昔よりもずっとゆっくりした足取りで歩いて行く。  午後の薄紅通りは行き交う人の数が多い。    前から歩いてくる人が皆一様に霧島を目に留め、それが二人組ならすれ違う時には必ず横目にささやき合う。  手前で一端立ち止まり耳打ちをする人たち、横に避け、通り過ぎる霧島をじっと見つめる人。  霧島は周りのそんな視線を気にする様子もなく、真っすぐに前を向いて目的地を目指した。  道路を渡る手前で

長編小説「きみがくれた」下ー⑬

「右腕」  両手に一つずつカゴに入った花鉢を持って霧島が戻って来ると、亮介は3つ目の花束を包み終えるところだった。 「この後まだ寄せ鉢と花鉢が2あるからおまえそこのテーブルでやれ」  亮介は顎でそう指しながら勢いよくフィルムを引き出し上から真っすぐにハサミを入れた。 「どうなっても知らねえからな」  霧島は亮介の後ろへ回り、色紙を2枚切り出すと脇のテーブルの上に置いた。  それから横にずらりと並ぶ色とりどりのリボンの中から水色と“若葉色”の2本を引き出すと、片手の先にスルス

長編小説「きみがくれた」下ー⑭

「貢物」  包みの中身はサンドイッチだった。  霧島は運転席で‘石の宮’の地図を広げしばらく眺めた後、一度だけこちらを向いてエンジンをかけた。  亮介に言わせれば‘石の宮’という街は“オシャレマダムの生息地”で、“和洋とりどりの超高級お屋敷住宅”と“ガーデニングフェア級の庭園”でできている。  “裕福なお花好きの奥様方”が多くて“配達の注文も増えている”のは“有難いけど、楓の森からは遠くて正直手が回らない”。    霧島が運転をしている姿を初めて見た。  真