長編小説「きみがくれた」下ー③
「春風」
前よりもずっと背が高くなった霧島の肩越しに、遠ざかる山道を眺めていた。
昨日はこの辺りまで香っていたあの甘い果実のような匂いはすっかり薄れていた。
月見山を降りて霧島が最初に向かったのは、ばあちゃんの家でもアパートでもなかった。
畑と空地ばかりの‘椴の森’を後に、進んだ先は‘欅の森’だった。
“コジャレたモデルルームみたいな住宅で出来上がっている街”と亮介が言う通り、“絵に描いたような街並み”が続いている。
その先に見覚えのある大きな欅の木が見えてきた。
ひよこ公園の前で立ち止まった霧島の視線の先には、空色の“とんがり屋根”の家があった。
周りを囲うレンガの塀、“絵本に出て来るような木製の”扉。
霧島はその古い木戸の少し手前で足を止めた。
体を支える腕に僅かに力が入る。
確かに、ここには何度か来たことがあった。
庭は“野うさぎでも出て来そうな”芝生が青々と茂り、玄関までのレンガの“スロープ”の両側には、季節ごとに色彩豊かな草花が植えられていた。
ゆっくりと地面に降ろされ、先を歩いて行ってみる。
色鮮やかな緑と、赤やピンクの花が出迎え、そこから玄関先へとつながる階段を飾るように並べられた溢れるばかりの花、花、花―――。
扉の下から覗いて見ると、そこは色のない地面しかなかった。
剥き出しになった土には所々短い黄ばんだ草が見える。
どこにも花と呼べるものはひとつもない。
真っ白だった壁の色は灰色にくすみ、ここは昔見たことがある景色とはまるで別の場所だった。
見上げると霧島の表情は止まっていた。
ただ一点を見つめる瞳からは何も聴こえない。
と、後ろでどさりと何かが落ちる音がした。
振り返ると霧島の後ろに人影を見つけた。
「‥霧‥島、君――?」
細い声に霧島の体が固まった。
少し離れた位置に立っているのは髪の白い女性だった。
「―――――-――‥まぁ――――――・・・」
「‥まぁ―――――‥‥‥」
白いブラウス姿のその人は、両手で口元を覆い霧島を見上げた。
その耳障りの良い声には聞き覚えがあった。
口元の手をふるわせながら、その細めた目から涙が一気に溢れ出た。
地面の上で形を崩した布袋から、見慣れたソーダ水がはみ出している。
「―――――‥‥‥っ―――――‥・・・――――」
声もなく涙を流す白い女性は、霧島を見上げたままあおの目元をしぼませていた。
霧島は女性と真っ直ぐに向き合い、けれどその人を見つめる眼差しは哀しく揺らいだ。
しばらく見つめ合った後、霧島はギターケースを下に降ろし、深々と頭を下げた。
口元を押さえる指に涙が伝い流れていく。
“僕の母さんはガーデニングが大好きだから、亮介さんとも話が合うんだ”
“亮介さんは母さんのことおとぎの国の住人なんて呼んだりして”
「ご無沙汰しています」
「―――――‥‥っ―――‥‥‥」
霧島を前に、マリコはしばらく何も言葉にできずにいた。
ただ止め処なく涙を流しながら、霧島を見上げるその肩も手元も小さく震えていた。
「――――大きくなって―――――‥‥」
やっとのことで口を開いたマリコの目から大粒の涙がいくつも零れた。
アスファルトはたちまち涙で濡れていった。
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