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長編小説「きみがくれた」下ー⑨

「話したいこと」


 店の窓にはまだ明かりが見えていた。
 霧島は駐車場の隅でしばらく立ち止まり、ガラスの向こうを見つめていた。

 その視線の先にはいつものようにカウンターの中に座るマスターの姿があった。
 傍らには紺色のマグカップ。
 

カラララン・・・コロロロン・・・

 扉の向こうから夜コーヒーの匂いが香った。

 
 顔を上げたマスターの表情は一瞬で固まった。

“まるで本物みたいだと言うような目”に、霧島は静かにこう言った。

「こんな時間まで営業?」

 マスターはけれど言葉を忘れてしまったかのようにただこちらに顔を向けていた。

 白髪交じりの髪
 髭の生えた口元
 
 感情の詠めない熱い瞳

 霧島はぼんやりしているマスターに口の端を少しだけ上げた。

 その無言の「ただいま」に、マスターの瞳が揺れた。

「――‥あ‥、―――‥‥」
 喉の奥から漏れた乾いた声。

 霧島はマスターのそんな様子に、けれど落ち着いた声でこう言った。


「父さんに‥似てる‥?」


 霧島の姿を上から下まで確認し、マスターはやっとのことで声を出した。

「‥あいつは、猫アレルギーだよ‥」

 表情も無く答えたマスターに、霧島は「ああ、そうか」と薄く笑った。

「それに、眼鏡もかけない」

 あいつは視力が抜群に良かったから。

 目の端を細め、マスターはようやく頬を緩めた。

「‥そうだね」


 そうしてしばらくの間二人は言葉もなくお互いに見つめ合っていた。

 霧島をただ見上げるだけのマスターに構わず、腕の中からあいさつをする。

「―――は‥なんだ、おまえのそんな声‥聞いたことないな」

 途切れ途切れに声を出すマスターの笑みは、おかしいくらい“いびつ”だった。


 ギターケースは床に下ろし、ナップザックをカウンターに置いて、霧島は背筋を伸ばした。

 そしてマスターと改めて正面から向き合った。

 カウンターの上から見上げると、その横顔は真っすぐにマスターを見据えている。

 霧島はその場で深く頭を下げた。

 そしてゆっくりと顔を上げると、マスターはいつものようににっこりと笑っていた。


「お帰り、央人」


 マスターも霧島の帰りをずっと待っていた。

 霧島はその微笑みに体の力を緩めた。


「ただいま」


 マスターの笑顔の涙に、霧島は頬を緩めた。


「こんな時間に‥――――‥まぁ、――いいか‥」

 マスターは霧島に何も聞かなかった。
 赤く腫れた目元にも、擦り過ぎた鼻の頭にも、何一つ触れなかった。

「央人、お腹は?空いてないかい」
 マスターは何も聞かない代わりに、“期待たっぷりの”笑みでそう尋ねた。

「プリンもあるよ」
 前よりも腕は上がってると思うよ。

 マスターがキッチンへ入ると、霧島はいつもの場所に腰を下ろした。
 見るとカウンターに置かれた冴子のテーブル花は、マーヤの家のリビングに山ほど飾られていた花のうちのいくつかと似ていた。

「ラナンキュラス、ラムズイヤー、ホワイトスター、ビバーナム」

 霧島はそのガラスの器に活けられた花をひとつひとつ指さしながら、そう教えてくれた。

「お待たせ、どうぞ召し上がれ」
 手作りのプリンと一緒に置かれたのは氷なしのりんごジュース。

 にっこり微笑むマスターに、霧島はグラスを手に取った。

 口を付けた霧島はすぐにマスターの顔を見た。

「うん、そうだよ、さすがだね」

 あれ以来、農家さんから直接仕入れさせてもらってるんだ。

「りんごちゃん印のりんごジュースは、これからもずっとここにあるよ」

 穏やかな笑みを浮かべるマスターに、霧島は小さく頷いた。

 “旬の時期”はりんごも一緒に送ってもらってるんだ。
 アップルパイやジャムだけでなく、シャーベットも人気のメニューになっているんだよ。

 
 霧島はプリンをすくいながら、マスターの話に時々うん、とかそう、とか小さく相づちを打っていた。


 りんごがすごくおいしいから、サラダに入れても抜群にウマい。
 ドレッシングにしても美味しかったし、俺の腕が上がったみたいな気になったよ。

 そう微笑むマスターにつられ、霧島が少しだけ笑ったりもした。


 ふと、マスターの視線が止まった。
 霧島がその様子に気が付くと、マスターは不意に笑みを漏らした。

「‥なに?」

 霧島はりんごジュースのグラスを置いてマスターの言葉を待った。

「‥いや、うん――‥ははは」

「え、なに?」

「うん、いや‥あはは‥」

「‥‥なに‥?」

 “謎の笑み”を浮かべながらこちらを眺めるマスターに、霧島は怪訝な表情をした。

「‥うん、いや――‥‥大人っぽくなったな、と思って」
 マスターはそう言って照れたように笑った。

「当たり前だよ、俺もう29だよ」
 もうすぐ30なんだから、と霧島は呆れたように言った。

「うん、そうだね、‥いや、さっきおまえが入って来た時はそんな風に思わなかったなって、自分でおかしくなっちゃってさ」
「今まじまじと見ちゃったら急に大人になったなぁってしみじみしちゃったんだよ」
 マスターは言い訳するようにそう言って「ちょっと今気分がおかしくなってるから許してくれ」と付け足した。

 霧島は食べ終わったプリンの器とグラスをまとめてキッチンへ運ぼうとした。
 けれどマスターはそのままでいいよと霧島を座らせ、あのアパートが取り壊された話を始めた。

 それは3年前の秋のことで、部屋の荷物は全てここの母屋の2階に引き上げたこと、その時は亮介が手伝ってくれて半日足らずで済んだこと、
 部屋に飾られていたマーヤの折り紙はひとつ残らずみんなで回収し、冴子がそれを全て保管できるようにまとめてくれたこと。
 大きなスケッチブックに貼り付けることにして、それが完成するまでに1か月以上かかったこと、
 そのスケッチブックは20冊以上になったこと。

「回収した時はこんなに大きなビニール袋が5個くらいになってね。改めてあの量を一人で作って、一人で飾り付けた夏目君の偉業に頭が下がるって、みんなで話していたんだよ。」
 マスターはそう言って淋しそうな笑みを浮かべた。

 ずっと黙ってマスターの話を聞いていた霧島が口を開いたのは、マスターがアパートの大家さんの話を始めた時だった。

「じいちゃん、亡くなったんだ‥」

「息子さんが知らせに来てくれてね。それでアパートも、もう終わりにするから、って。ずっと前から処分するようにお父さんを説得していたそうなんだけど、断固として応じなかったんだそうだ。」

 マスターはマグカップにコーヒーをつぎ足しながら、話を続けた。

「息子さんにしてみれば、あまりにも古い建物は危険な面もあるし、場所が場所だけに建て替えても需要はないだろうから、せめて何かある前にまっさらにしてしまいたかったんだよね。でも、強行突破はしたくなかったって。もう誰も住んでいないアパートを毎日眺めに行くことが大家さんの日課だったし、どれだけ古くなってもあの建物は大家さんの掛け替えのないものだったんだろうって」

「あれは、じいちゃんの宝だったんだ」

“おまえさん、若いのに見る目あるな”

「俺がここに住んでもいいかって聞いた時、じいちゃん俺に見る目あるなって言ったんだ」

“これは俺の宝だ”

「そうか‥きっとうれしかったんだね」

“最初で最後の俺の城だ”

「あの時代に海外へ行くなんてなかなかできないことだっただろうからね。大家さんは若かりし頃に言葉も分からない異国の地で一から建築の勉強をしてあのアパートを建てたんだ。年期が入っていたけれど、よく見ればオシャレな建物だったよね。外階段がアイアンだったり、部屋のドアのデザインがひとつひとつ違っていたり。でも部屋は純日本の昔ながらの2DKで…畳の大きさが今どきのものより1まわり大きくてね。この辺りのちぐはぐさがまた味だったよね。大家さんのやりたいこと、好きなものが詰まった城だったんだろうね。」

 マスターはそう言ってコーヒーを一口啜った。


 マスターはこの夜をどこか味わっているようにも見えた。
 夜用のコーヒーも今夜はとてもおいしそうに見える。

 霧島の前に出したのは氷なしの冷たいココアに、たっぷりの生クリーム。
 その上にチョコレートソースがかかっている。

「今日焼いたばかりのバナナケーキがあるんだけど、食べる?」
 うれしそうに微笑むマスターに、霧島は頬を緩めた。


 話したいことはきっとたくさんあった。
 ココアを作りながら、ケーキを準備しながら、マスターの霧島と話したくて仕方がないその様子は“うれしさが駄々洩れ”だった。

 夜コーヒーの香りとバターが焼ける匂いが店を優しく満たしていた。
 霧島は温めたバナナケーキにフォークを刺して、ゆっくりと口へ運んだ。

「おいしい」

 その言葉にマスターの顔がほころんだ。


 それから長い長い沈黙が続いた。

 その間二人は無言で会話をしているようにも見えた。

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