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長編小説「きみがくれた」下ー➁

「執念」


 空が夜から朝に移り始める頃、あの眩い光景は跡形もなく消えていた。
 辺りに立ち込める甘い香りだけがその存在を確かに残している。

 傍らに全ての力を使い果たしたように眠る霧島の小さな寝息。

 
 霧島がここにいる。


 閉じた瞼に鼻を寄せ、昔よりもすっきりと短い前髪にその白い額に鼻先を擦る。


 今、ここに霧島がいる。


 髪の感触、素肌の匂い、腕の温もり。
 指の形、手の大きさ、首の温度。
 そのひとつひとつを感じながら、頬ずりをする。


 朝焼けが野原一帯に広がっていく。


 昨日の満月はうそのように、遠く、白く霞んでいた。


 霧島の腕に体を寄せたまま、移り行く空の色を眺めていた。
 藍色から澄んだ水色へ、オレンジ色の輝きがみるみるうちに昇っていく。

 眩しさに目を細めていると、首元に気配を感じた。
 その指先に応えるように見下ろすと、光の中で霧島の瞳と出会った。

「‥きれいだな――」

 それは聞き覚えのある懐かしい言葉。

「‥宇宙みたいだ――」

 手の平に顔を摺り寄せながら、懐かしいその瞳を見つめ返す。

 ほどけるような笑顔に頬ずりをすると、大きな両手で体を全部撫でつけてくれる。

 この手をずっと待っていた。

 そばにいる時も、いない時も、
 いつも、いつでも。


 霧島がここにいる。


 この手の感触も、温もりも、昔と何も変わらない。

 ずっとずっと、今も昔も大好きな―――


 差し出されたその指先を鼻先で受け止める。

 冷たい温もりが顎の下から耳の後ろへと滑る。


 霧島が帰って来た。


 ゆっくりと体を起こし、霧島は辺りを見回した。

 太陽の光が行き渡る野原は、いつもの通り何もない景色が広がっている。

 
 見覚えのある黒いナップザックを手に取り、中から手の平ほどの紙の袋を取り出すと、霧島はゆっくりと立ち上がった。

「これは今年の分―――」

 袋から空に蒔かれた小さな粒は、光の中へと消えていった。

「――これで終わりだ‥」

 霧島は袋の中を覗き、最後の一粒を手の平に乗せた。

「コンペイトウ‥」

 見るとその粒はちょうど昨日見た花と同じくらいの大きさで、いくつも細かい角があった。

 霧島はその小さな粒を草の上にそっと置いた。

「10年‥」

“結構適当なんだな”

“そんなんでいいの”

“さぁ”
“スミレ次第だよ”

“バクチだな”

“ちがうよ”

“バクチじゃなくて、奇跡だよ”

「―――奇跡じゃねぇよ‥」


 霧島は真っすぐに空を見上げた。

“植物の種の発芽って、いろんな奇跡が重なって起こる、奇跡中の奇跡なんだよ”

“めんどくせぇな”
 
“そうだよ、簡単じゃないんだよ”
 
 
 
「カンタンだ」
 
 
 
“人間の手でよい条件を作ろうとしたら、土とか水とか湿度とかをその植物に最適な環境にして――”
 
 

「めんどくせぇよ」
 
 

“だからちゃんと選ぶんだ”
“ここで生きられるかどうか”


「そんなもん関係ねぇ」


“どの植物の種もそれぞれに生きる条件があって”
“そこに生きると決めたら芽を出すんだ”


「そんなことどうでもいい」


“ね、すごいと思わない?”

“植物ってすごいと思わない?”


「‥執念だ」


“執念だな”


「――執念だよ」


 霧島がこの街に戻る理由はいつもひとつだけだった。

「マーヤ‥」

 約束がなくても、探しに行かなくても、いつもマーヤはそこにいた。

「‥マーヤ――‥」

“お帰り、霧島”

 その笑顔に霧島はずっと会いたかった。

“お帰り、霧島”

 その声を、霧島はずっと聴きたかった。

 

 真っ直ぐに大空を仰ぐその先に、熱く、強く太陽が輝いている。

 草の上に零れる雫が光の中にきらめいた。

「――――うぅっ・・・・――――」

“お帰り、霧島”

「ううぅっ‥‥―――――っ‥‥‥うぅっ――――――」


 あの日からずっと、
 ずっと待っていた霧島が帰って来た。


 マーヤ、霧島が帰って来たよ。


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