![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/89184685/rectangle_large_type_2_1d4a22252fd90861e284bd2257687198.png?width=800)
長編小説「きみがくれた」下ー➁
「執念」
空が夜から朝に移り始める頃、あの眩い光景は跡形もなく消えていた。
辺りに立ち込める甘い香りだけがその存在を確かに残している。
傍らに全ての力を使い果たしたように眠る霧島の小さな寝息。
霧島がここにいる。
閉じた瞼に鼻を寄せ、昔よりもすっきりと短い前髪にその白い額に鼻先を擦る。
今、ここに霧島がいる。
髪の感触、素肌の匂い、腕の温もり。
指の形、手の大きさ、首の温度。
そのひとつひとつを感じながら、頬ずりをする。
朝焼けが野原一帯に広がっていく。
昨日の満月はうそのように、遠く、白く霞んでいた。
霧島の腕に体を寄せたまま、移り行く空の色を眺めていた。
藍色から澄んだ水色へ、オレンジ色の輝きがみるみるうちに昇っていく。
眩しさに目を細めていると、首元に気配を感じた。
その指先に応えるように見下ろすと、光の中で霧島の瞳と出会った。
「‥きれいだな――」
それは聞き覚えのある懐かしい言葉。
「‥宇宙みたいだ――」
手の平に顔を摺り寄せながら、懐かしいその瞳を見つめ返す。
ほどけるような笑顔に頬ずりをすると、大きな両手で体を全部撫でつけてくれる。
この手をずっと待っていた。
そばにいる時も、いない時も、
いつも、いつでも。
霧島がここにいる。
この手の感触も、温もりも、昔と何も変わらない。
ずっとずっと、今も昔も大好きな―――
差し出されたその指先を鼻先で受け止める。
冷たい温もりが顎の下から耳の後ろへと滑る。
霧島が帰って来た。
ゆっくりと体を起こし、霧島は辺りを見回した。
太陽の光が行き渡る野原は、いつもの通り何もない景色が広がっている。
見覚えのある黒いナップザックを手に取り、中から手の平ほどの紙の袋を取り出すと、霧島はゆっくりと立ち上がった。
「これは今年の分―――」
袋から空に蒔かれた小さな粒は、光の中へと消えていった。
「――これで終わりだ‥」
霧島は袋の中を覗き、最後の一粒を手の平に乗せた。
「コンペイトウ‥」
見るとその粒はちょうど昨日見た花と同じくらいの大きさで、いくつも細かい角があった。
霧島はその小さな粒を草の上にそっと置いた。
「10年‥」
“結構適当なんだな”
“そんなんでいいの”
“さぁ”
“スミレ次第だよ”
“バクチだな”
“ちがうよ”
“バクチじゃなくて、奇跡だよ”
「―――奇跡じゃねぇよ‥」
霧島は真っすぐに空を見上げた。
“植物の種の発芽って、いろんな奇跡が重なって起こる、奇跡中の奇跡なんだよ”
“めんどくせぇな”
“そうだよ、簡単じゃないんだよ”
「カンタンだ」
“人間の手でよい条件を作ろうとしたら、土とか水とか湿度とかをその植物に最適な環境にして――”
「めんどくせぇよ」
“だからちゃんと選ぶんだ”
“ここで生きられるかどうか”
「そんなもん関係ねぇ」
“どの植物の種もそれぞれに生きる条件があって”
“そこに生きると決めたら芽を出すんだ”
「そんなことどうでもいい」
“ね、すごいと思わない?”
“植物ってすごいと思わない?”
「‥執念だ」
“執念だな”
「――執念だよ」
霧島がこの街に戻る理由はいつもひとつだけだった。
「マーヤ‥」
約束がなくても、探しに行かなくても、いつもマーヤはそこにいた。
「‥マーヤ――‥」
“お帰り、霧島”
その笑顔に霧島はずっと会いたかった。
“お帰り、霧島”
その声を、霧島はずっと聴きたかった。
真っ直ぐに大空を仰ぐその先に、熱く、強く太陽が輝いている。
草の上に零れる雫が光の中にきらめいた。
「――――うぅっ・・・・――――」
“お帰り、霧島”
「ううぅっ‥‥―――――っ‥‥‥うぅっ――――――」
あの日からずっと、
ずっと待っていた霧島が帰って来た。
マーヤ、霧島が帰って来たよ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?