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長編小説「きみがくれた」下ー⑪

「遅く起きた朝」


 店へ続くドアから覗いて見ると、店内はあちこちで賑やかな声が上がっていた。
 その中をマスターが忙しそうに料理を運んでいる。

 霧島はそっとドアを閉めた。

 母屋のリビングへ続く廊下で足を止め、霧島はガラス戸の向こう側へ目を向けた。
 
 中庭はいつもと変わらない。

 大きなニレの木、土の上に張り出した太い根、幹にできたくぼみ。
 まだ色を付けていないばあちゃんのアジサイ、風に茂る薬草の群れ。
 芝生の隙間には今年も数を増やしたスミレがいくつも顔を出している。

 霧島はガラス戸を開け、廊下の床に腰を下ろした。
 そよ風にばあちゃんの薬草の香りが混ざっている。

 ミントにバジル、ローズマリー
 フェンネル、タイム、ラベンダー
 背が高いのはエキナセア

 縁側から見える景色を“ほぼ完ペキ”に再現した中庭。

“順調そうだね”

“ちゃんと根付いてるってことだよ”

“ほらここ、新芽が出てるでしょ”

 

 風に揺れる紫色の花。

“ラベンダー”はアネモネの店先にも植えられた。


 今もかわらず、そこにはマーヤと過ごした時間があった。

“霧島はほんと、植物に興味ないんだなぁ。”


 あのニレの幹のくぼみで、その芝生の上で、
 ラベンダーの陰から、ミントの茂みから、
 そのどこにでも、こちらを振り返るマーヤの笑顔が溢れている。


「央人」

 霧島の膝の上で顔を上げると、店から上がったマスターが見えた。

「待たせたね、朝ごはん――いやもう昼も過ぎてるか、お腹空いただろう」

 見上げるとマスターは手に黒い板を持ったままだった。

 まだ霧島がここにいた頃に店を“昼夜の2部制”にして、それは今も続いていた。
 マスターはもっと早くこうすればよかったとか、こっちの方がいろいろやりやすいとか一通り話してから、「何か食べたいものはあるかい」と尋ねた。

「パンか、ごはんか‥なんでもできるよ」
 リビングのソファに座る霧島に聞きながら、マスターは冷蔵庫の扉を開けた。

「なんでもいいよ」
 すぐに答えた霧島に、マスターは取り出したグラスを置いた。

「なんでもできるから、食べたいものを言ってごらん」
 なにせお店だからね、とマスターは得意げに言って見せた。

 パンならトーストにバター、フレンチトースト、クロックムッシュ、ピザトースト。
 エッグベネディクトにしようか?ジャムはりんごにいちご、ブルーベリーにマーマレードもある。
 卵は目玉焼きとベーコン?ハムがいい?スクランブルエッグならコーンも入れる?卵焼きにするか、オムレツ?オムライス‥
 味噌汁がいい?それとも野菜スープか、バナナと小松菜でスムージーでも作ろうか。

 霧島はこちらを向いたまま、マスターの質問攻めにひっそりと頬を緩めた。

「あとは‥魚がよければサーモンか鯛があるよ。ムニエルにしようか?和風なら網で焼いて白ご飯と味海苔‥あ、鯛のお茶漬けにする?」

 答えるまで続きそうなマスターの質問に、霧島はようやく口を開く気になった。

「‥フレンチトーストがいい」

 マスターの質問が一息ついたところで霧島はそう答えた。
 僅かに笑みを含んだ声に、マスターは顔を上げた。

「何?」
「ううん、なんでもない」
 けれど霧島の声には笑みが漏れた。

「‥?フレンチトーストね、OK」

 
 リビングは部屋の端から端まで、渡り廊下よりもずっと大きなガラス戸になっていた。
 少しだけ開けた外から心地よい風が入ってくる。
 薄い白いカーテンが風に合わせてふわりと揺れている。

「こんなに広い部屋があったんだね」

 リビングを見渡しながら、霧島はつぶやくようにそう言った。

 茶色いソファは10人掛けでテレビは畳1枚よりも一回り小さいくらいの大きさだとマスターは言った。
 
 亮介に言わせればこの部屋は“白い壁とこげ茶色のフローリングがラグジュアリー”で“吹き抜けの天井がオシャレ感を上げている”。
 “広いデザイナーズキッチンはドラマのセットみたい”だし、“このサイズの一枚板のガラスはヤバい”。

「この敷地に合うように店と母屋を作ってもらったのはいいけれど、一人住まいにしては大きすぎるし、広すぎるんだ。毎回掃除が大変だよ。」

 ここのテーブルもこんなに大きいとかえって淋しいよ。なにせ8人掛けに一人だからね。
 マスターはそう話しながらキッチンで手際よく準備を進めた。


 バターの香りと油の跳ねる音が聴こえてきた。

 霧島はソファの上で膝を抱え、窓の外を見つめていた。
 体をぴったりと霧島に寄せ、暖かいそよ風に吹かれていた。


「お待ちどうさま、こっちへどうぞ」

 テーブルには赤とオレンジ色のマットの上に、色とりどりの食事が用意されていた。
 白い湯気が上がるふっくらと黄色に包まれた丸いパンが2つ。
 表面に茶色い焦げ目がついている。
 その横に緑や紫色の葉野菜と、焼いた輪切りの野菜も添えられている。
 白いカップには熱々の赤い“ミネストローネスープ”。

「飲み物は何にする?」
 マスターはキッチンへ戻りながらそう尋ね、
「コーヒー、牛乳、カフェオレ。カプチーノもこっちで作れるよ。ココアもあるし、もちろんりんごジュースもある。それから‥お茶なら緑茶、玄米、黒豆、柿の葉茶っていうのもこの前もらったんだ・・ルイボスもあるし、アールグレイ、アッサム、ダージリン、‥ミルクティーにする?シナモンもあるよ。チャイもできるな・・とりあえずお水?ミネラルウォーター、最近ちょっとイイヤツに替えたんだ。」

 食器棚からグラスとマグカップを取り出しながら、マスターはこちらに顔を向けた。

「‥りんごジュースがいい」
 笑みを漏らす霧島に、マスターもつられて微笑んだ。

「なんだい、さっきから‥何かおかしいかな?」

 霧島はなんでもない、と短く答え、長細いカゴの中からフォークとナイフを取り出した。


「何かいるものがあったら言うんだよ。ゆっくり食べて、食器はそのままにしておいていいから。サンドイッチは冷蔵庫の中のバスケット、着替えは2階の部屋のクローゼットに入れてあるから」
 マスターはそう言って再び店へ戻って行った。


 リビングは快適な温度だった。
 外からの緩やかな風が部屋を巡り、やわらかな日差しが天井から降り注ぐ。


 今朝目を覚ますと、すぐそこに霧島の寝顔を見つけた。
 寝息にそっと耳を澄まし、温かい頬に鼻を寄せた。
 首の辺りから顎にかけて頬ずりをして、髪の中に顔をうずめた。

 もう暗い外へ出ることはない。

 霧島がここにいることを何度も繰り返し確かめて、それからもう一度布団にもぐった。

 もう冷たい道を探し歩かなくてもいい。

 大好きな匂い。
 大好きな温もり。

 胸元の辺りから顔を出し、肩に顔を乗せて目を閉じた。

 大好きな匂い。
 大好きな温もり。

 肩の辺りからもう少し上に、それから髪に、鼻先をうずめた。

 今、霧島がここにいる。

 また目が覚めた時も、きっと霧島はここにいる。


 食事を終えた霧島の膝の上で、今朝の記憶を思い出していた。


 霧島の手の温もりを背中に感じながら、今朝の夢の続きを見ていた。

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