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長編小説「きみがくれた」下ー⑤

「ヒーロー」


「それからすぐに夏休みになって、あなたが初めてここへ遊びに来てくれた」

 マリコはまるですぐそこに居るマーヤと3人で話しているように見えた。

 あの日のことはよく覚えているわ――。

“ぼく、大きくなったらここに行くんだ”

「あの絵―――この子が幼稚園で描いてきた‥あの絵を、あなたはただ一人、理解してくれた‥」

『ぼくのいきたいばしょ』

“うれしかったなぁ”

「実はね、私も、夫も、幼稚園の先生方も、大人は全員あの絵が宇宙の何かに見えたの。お月様と、お星さま‥だからきっと光樹は将来、宇宙飛行士になりたいのね、って話していた」

“お星さまはお空にあるのよ”

“おほしさまじゃないよ、お花だよ”

“お花?”

「あなただけが、あの絵を見ただけであれは花だと言ってくれた。そのことがこの子にとってどれだけうれしかったか‥」

 他でもない、あなたがそう言ってくれた‥―――そのことが、この子をどれだけ幸せな気持ちにしてくれたか―――。

「――――――‥‥」

“ぼくね、いつかぜったいここに行くんだ”

 そしてマリコは潤んだ瞳を霧島へ向け、ふわりと優しい笑みを浮かべた。

「あの夏の日が、この子の3つ目の記念日」

 霧島はマリコの話を聞きながら、相槌も打てずにいた。

「本当に、あなたには感謝しているの。この子が毎日こんな笑顔で過ごせるようになったのは、あなたのお陰だから‥――あなたと出会って、光樹はとても幸せだった。いつも明るく、元気いっぱいで‥その分、私は心配事も増えたけれど‥」
 マリコはそう言って困ったように笑った。

「私はこの子の母親として、あなたがこの子の側に居てくれて、本当に良かったと思っているの」

 マリコの頬に涙の筋が伝っていく。

「――――ありがとう―――‥‥この子とお友達になってくれて―――‥本当に、感謝しています―――」

 深々と頭を下げるマリコに、霧島は慌てて身を乗り出した。

「っ・・そんな、僕は何も‥――」

 頭を上げてください。

「‥僕の方こそ、―――――」

「ほんと‥僕の方こそ――――」

 動揺する霧島に、マリコはけれど首を振った。

「あなたがいてくれたから、この子は変わることができた。‥あなたの存在があの子を変えたの。この子の生涯はとても短いものだったけれど、―――それでも―――‥‥あなたのお陰で、この子の毎日はとても色鮮やかに‥幸せに満ち足りた人生だった―――」

 これは主人も同じ気持ちよ。

 
「――――――‥‥‥」

 霧島の瞳の端から涙が溢れた。

「あなたはきっと、これも覚えていないかもしれないわね‥」
 マリコは写真に目を移し、話しかけるように微笑んだ。

「あなたが初めて、光樹に話し掛けてくれた時のこと」

「―――‥?」

 両手で写真を持ったまま顔を上げたその笑みは、いたずらっ子なマーヤの笑顔を思い出させた。

「小学校1年生の時、秋の写生大会」

“これが小1の、秋の写生大会の”
 
 
「みんなで揃って学校のお外へ出て、絵の具とガバンを持って‥近くの風景を描きに行くの―――年に一度の行事」
 
「――あぁ‥」
 
 霧島は遠い記憶を辿るようにマリコから視線を外した。
 
 
「一年生の時は、楠の森の農家さんが集まる畑に行ったでしょう。梨の木や葡萄棚がたくさんある農園が広がる――この子はね、畑の近くの土手を登って、一人でその丘の上にあった栗の木を描くことにしたの。とても立派な、大きな木‥そこでこの子は一人で――いつものようにその木とお話をしながら絵を描いていた」
 
 マリコは“ほとんど覚えていない”と顔に書いてある霧島を見てくつりと笑った。
 
 土手の下では他の子どもたちが楽しそうにおしゃべりしながらお絵描きをしていた。
 この子の周りには誰もいなかった。
 でも―――。
 
「突然、すぐ隣で声がしたの」
 
 
“お母さん!”
“あの子が”
 
 
“マロングラッセって知ってる?”
 
 
「―――うふふふ‥その顔は、やっぱり何も覚えていないのね」
 
「―――?」
 
 マリコは両手で口元を押さえながらふふふと笑った。
 
「あなたが、そう声を掛けてくれたんですって」
 
「“マロングラッセって知ってる?”」
 
「―――‥‥」
 
「“ばあちゃんがえらいひとからもらったやつ”、“すげぇうまい”」
 
 マリコはくつくつ笑いながら、霧島の表情を伺った。
 
「そしてね、こう言ってくれた」
 
 
“おまえのあたま、うまそうだな”
 
 
「―――っ‥え―――」
 
「うふふふふ‥ふふふ」
 
 霧島は眉をひそめ、困惑した様子でマリコを見た。
 
「俺、そんなこと‥」
 
 申し訳なさそうに首をすくめる霧島に、マリコは笑顔でこう言った。
 
「違うの、誤解しないでね」
 
「――‥?」
 
「うれしかったの。この子はね、きっと、そうね――天にも昇る気持ち‥そんな感じだったんじゃないかしら」
 
「―――え‥?」
 
「あなたの、あの一言が、この子をどれだけ勇気づけたか――‥あの時、光樹はあなたの言葉に救われたの」
 
「救う――‥」
 
「ええ、そう」
 
 
“お母さん”
 
“ぼくこの髪のままでいい”
 
 
「帰って来た光樹がまず最初に私に言ったのは、あなたが話しかけてくれたということ。入学式の日に見かけたあの子が、って‥とても驚いて、そして、何よりもうれしかったのは、あなたが自分の髪の色を“おいしそう”だと言ってくれたこと。」
 
「―――‥‥」
 
 幼稚園の頃からずっとコンプレックスでしかなかった、他の子にからかいの対象にされてきたことを、あなたはおいしそうって。
 安西先生に、髪が黒くなる薬を作って欲しいとまで言っていた、ずっと気にしていた髪の色を―――。
 
 
「あなたが話してくれたそのマロングラッセは、すごくおいしいんだって、って‥この子はきっと、まるで生まれ変わったような気持だったはず‥」

 マリコは昨日のことのようにその時の様子を話してくれた。
 
 
“ぼくのあたま、おいしそうだって”
 
“まろんぐらっせなんだって”
 
 
“お母さん”
 
 
 
「あなたのお陰で、この子は“自分は自分でいいんだ”って思えたの」
 
「あなたがこの髪色をおいしそうっていってくれるから」
 
 
“ぼくもうお薬いらない”
 
“安西先生に言ってくる”
 
“ぼくもういらないって言ってくる”
 
 
「うれしかった―――本当に、うれしかった――」
 
 
 
「私にとっても、あの日は今まで心に深く根付いていた罪悪感がほどけたような気がして――‥私ね、この子のあんなにうれしそうな顔を見たのは、もしかしたらあの時が初めてだったかもしれないって思ったの。私の中でずっと、光樹が生まれてからそれまでずぅ‥っと気に病んでいたことが、あの笑顔で一気に晴れて‥」
 
 マリコは光の中でうれしそうに笑みをこぼした。
 
「ここからずっと遠くの橅の森の診療所まで、たった一人で歩いて行って、先生にお薬をせがんでいたこの子が‥」
 
 
“先生の所へ行く”
 
“ぼく先生の所に行ってくる”
 
 
「この子ね、ほんとうはその時まで、私に内緒にしていたの。安西先生にお薬を作って欲しいってお願いしていること‥でもそんなこともすっかり忘れて‥」
 
“先生って?安西先生?”
 
“うん、ぼくもうお薬いらない”
 
“お薬?”
 
“安西先生に言ってくる”
 
“ぼくもういらないって言ってくる”
 
 
「それから先生にお電話をして‥」
 
 
“分かったわ”
“お母さんがお電話してあげるから”
 
“お電話でお伝えしましょう”
 
「あの時は先生の所へ行くと言ってきかないこの子を止めるのが大変だったわ‥」
 
 マリコはそう笑ってそっと目元を拭った。
 
 
「‥あの日が、この子の初めての記念日。そして、私にとっても――。」
 
 マリコは写真のマーヤに語り掛けるようにその優しい眼差しを向けた。
 
「ふふふ、あら、そうすると記念日は全部で4つね‥もしかしたらもっとあったのかも」
 
 穏やかな笑みを浮かべるマリコに、霧島は言葉が出てこなかった。
 
 
“これが小1の、秋の写生大会の”
 
 
 大きな“ガバン”を首から下げた小さなマーヤが、“仏頂ヅラ”で立つ幼い霧島の横で笑っていた。
 
 
“霧島は自分から話しかけることなんてまずないから”
 
 
 それはマーヤの一番の “宝物”だった。
 
 
「本当に、この子はあなたのことが大好きで―――あなたと同じクラスになった3年生から、学校での出来事は毎日毎日あなたのことばかりだった。その話を聞きながら、私もつられて楽しくて‥この子の本当の笑顔が見れて、私はそれがとてもうれしかった」
 
「こんなによく笑うようになってくれたって、こんな風に笑う子になってくれたって――」
 
 
 霧島はマリコの話に圧倒されていた。
 
 霧島でも知らないことがたくさんあった。
 
 
「私は今でもこう思っているの。幼い頃の光樹は、きっと私のために笑ってくれていた。自分の容姿のことで私がずっと負い目を感じていたことを、この子はきっと分かっていた。だから自分が笑顔でいることで、私を、夫を、安心させようとしてくれていた。小さいながらに、私たち親のことを気遣ってくれていたんだと思うの。」
 
「けれどあなたと出会って、あなたの言葉で、あなたと一緒にいることで、この子は心から笑えるようになれた。この子があなたの話をするたびに、私たちはとても幸せな気持ちになれた。私も夫も、だからあなたのことはとても身近に感じていたのよ。」
 
 
 相づちをうつことさえままならない霧島を、マリコは改めて真っ直ぐに見つめた。
 
「高校1年生の時、確か‥6月の梅雨の頃だったわね。絹子さんが亡くなって――あの時、光樹はあなたをうちの子にして欲しいって言ったの。それがあまりにも真剣で、一生懸命でね‥私たち、光樹に言ったの。そんなに必死に頼まなくても、いつでも大歓迎だって。今すぐにでも連れていらっしゃい、って。」
 

 
“霧島は僕のうちの子になって欲しいんです”
 
 
“それが一番いいよね”
 

 
「――――‥」
 


 
“僕、霧島を一人にはできない”
 
 
「光樹はね、今はあなたを一人にできないって、きっと本当にどこかへ行ってしまうって―――珍しく硬い表情でそう言うものだから、私たちは逆に戸惑ってしまって。大丈夫だから、いいからすぐに呼びなさい、って宥める(なだめる)始末でね‥」
 
 
“僕の家で一緒に暮らそう”
 
“ね、霧島”
“それが一番いいよね”
 
 
「夫が明日手続きのことを聞きにお役所へ行くと約束して、それでやっと安心してね‥この子はあなたのことが本当に心配だったの」
 
 
“霧島、どこかへ行っちゃうかもしれない”
“本当にどこかへ行っちゃうかもしれない”
 
 
 
“大丈夫だよ”
 
“うちに来ればいいから”
 
 
「けれどあなたが一人でアパートに住むことが決まって‥私はこの子が家を出て行くと言い出すかと思っていた」
 
 

“やったぁ!!”
 
“それ1つ僕の部屋でしょ”

“霧島と二人暮らしなんてすごいよ”
“うちに住むよりずっとおもしろいよ”


「でも、この子はそれを我慢してくれた」

“母さん僕、この家を出て行ったりしないよ”

「でも、あなたを一人にはできない、って‥――私、そう言ったこの子が、とても大きく見えたの。親バカなことを言うようで恥ずかしいけれど‥あなたを思い遣る気持ちの強さに、はっきりと私に意志表示をする姿に、この子の成長を感じた―――‥とてもうれしかった。この子にも、そんなお友達ができたんだって、こんな風に心配したいお友達ができたんだって、そう思ったらなんだかとても感慨深くて―――」


“俺はもうマリコを泣かせたくない”


“僕毎日泊まりに来る!”




「――‥っ―――‥‥ごめんなさいねぇ―――‥‥っっ・・・」

 突然、マリコが吐き出すような声を上げた。

「この子――・・・・あなたにこんな思いをさせて‥‥――――」

 両手で顔を覆ったマリコの叫ぶような泣き声が、部屋中に響き渡った。

「この子が――‥一番あなたを守りたかったはずなのに―――‥‥‥」

 本当にしょうのない子―――……

 マリコはそのまま床に泣き崩れた。

 “僕、霧島に謝りたいんだ”


「あなたを一人にはできないなんて言っておきながら――――こんな―――‥‥あなたを一番悲しませるようなことになって――――‥‥」


「―――‥‥‥」

 マリコは細い体を震わせながら、涙に潰れた声で続けた。

「本当に‥ごめんなさい――‥‥あなたにはたくさん――たくさん、大切なものを――‥たくさん、たくさんもらったのに―――」


“僕、霧島に謝りたいんだ”


「最後に‥こんな―――‥―――こんなことになって―――‥‥」

 
 霧島はマリコの言葉を止めようと、喉の奥から声を絞った。


「‥俺の方こそ‥、いつも‥いつも、助けてもらっていました」


“霧島”

“見てよこれ、ほら!”

“霧島”


「あいつは、いつも‥―――、俺の―――」

 霧島は目の前で泣きすさぶマリコを真っ直ぐに見据えた。
 その瞳から涙が零れ落ちていく。


“大丈夫だよ”

“霧島”

“うちの子になればいいよ”


「あいつは―――いつだって俺の――‥‥」


“霧島ー!”

“一緒に帰ろー!”


 言葉を詰まらせた霧島の涙が、床の上に溜まっていく。


「―――俺の方こそ――‥‥」


“ラベンダーだよね?”

 あいつは俺の――


“霧島”

“霧島なら何にだってなれるよ”

“僕が保証する”


 今でも、俺の―――。

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