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長編小説「きみがくれた」下ー①

「超えて、届け」


 目が覚めた時、雨音はもう止んでいた。
 辺りは真っ暗で何も見えない。
 朝までにはまだ時間がある。

 暗闇の中、部屋のドアをすり抜けて渡り廊下へ出ると母屋のリビングから明かりが漏れていた。
 まだ濃く残るコーヒーの匂いの中を真っ直ぐに進み、店へ降りる。


 外に出ると生暖かい風がゆるく吹いて、見上げると夜空は怖いくらいの明るさだった。
 青黒く、くっきりと澄み渡る静かな空には、雲一つない。

 いつもの時間ではないけれど、足はもう動き出していた。
 不気味に明るい夜の通りを足早に進む。
 

 真夜中の音のない街中は、けれどなぜか騒々しく体の奥が湧き立つように急かされる。
 速足が気を抜くともつれそうになりながらあっという間に赤いポストに到着した。

 体が軽くて休んでる暇もない。
 どこへも立ち寄らず、一直線に月見山を目指していた。
 大雨の跡が残るぬかるみも水溜まりも気にならなかった。
 泥に足を取られても突き動かされるように進んで行く。

“早く”

“こっち、早くおいでよ”

 まるで昼間のように明るいあぜ道のその先にマーヤの後ろ姿を追い駆けて行く。

“今夜は満月だよ”

“あそこならきっとここよりずっと大きくきれいに見えるよ”


 月見山の入口は、まだずっと先だった。
 けれどその甘い匂いに足を止めた。

 今年初めてのあの香りだった。

 けれどこれまでとは比べ物にならないほど強く、濃く、重い。

 風のない山道で、それは確かに上の方から降りて来ていた。

 速足で草を掻き分け、荒い呼吸を整える気もなく上へ、上へと足を進める。
 上へ行くほど重く濃厚な甘い香りに息が詰まりそうになる。

 それでも上へ、上へ、足は止まらず動き続けた。


 野原へ出る茂みの前で、その重い甘さは熟した果実のように瑞々しくなった。
 濃密さは僅かに澄んで、さわやかな春の香りが溶けた匂いだった。

 茂みを抜けて野原へ出ると、目の前には手が届きそうなくらい大きな満月が浮かんでいた。

 それは恐ろしい程に鮮明で、輪郭がはっきりとしていた。

 全身が震えた。

 くっきりと澄み渡る青い夜空に、満月は圧倒的な存在感でそこにあった。

 その黄金の輝きが野原全体を照らし出していた。

 気が付けばそこには見たこともない景色が広がっていた。

 何もないはずの野原は辺り一面無数の白い小さな点が散りばめられていた。
 その一つ一つは僅かに光を帯びて、巨大な満月と呼応するように輝いている。

 その眩い光に埋め尽くされた野原の真ん中に、懐かしい後ろ姿を見つけた。


 足は地面に吸い付いたように動かない。

 頭の中は冴えているのに、体はまるでそこから切り離されたように感覚を失っていた。


 霧島が帰って来た。


 視界は驚くほど開き、その人を捕えていた。


 霧島が帰って来た。


 体の奥から、喉から、大きなうねりがもがいている。

 すぐそこにいるのに何も動かすことができない。

 あの日見送った黒い後ろ姿が今目の前にいるのに。

 あれからずっと探していた

 ずっとずっと待っていた

 

 喉の奥に波打つような息苦しさを感じながら、その後ろ姿を見つめていた。

 

 いないことが当たり前になっていた。
 それでもずっと待ち続けていた。


 霧島が帰って来た。


 ずっと、ずっと、

 ずっと、待っていた。


“霧島”

 今すぐに駆け寄りたいのに

 今すぐに飛び付きたいのに

“霧島”

 大きな声で呼びたいのに


“お帰り霧島”


ずっとずっと待っていた

懐かしい背中

懐かしい髪

懐かしい手


マーヤ、霧島が帰って来たよ


“霧島が帰って来たら一番最初にお帰りって言いたいんだ”


マーヤ、霧島は帰って来たよ


“お帰り、霧島”


 金色に光り輝く巨大な満月

 その眩しい光を背景に、霧島はゆっくりとこちらを向いた。

 逆光の中、いつものように口の端を少しだけ上げ


“ただいま”


 その無言のあいさつが身体を解いた。

 草原を力いっぱい蹴り上げて走り出す。


“お帰り霧島”


 一目散に駆け出した体はうそのように軽かった。
 足は飛ぶように回転し、あっという間にその胸の中へ飛び込んだ。


“お帰り霧島”


 体全部で体当たりして、押し倒したその首元に体全部を擦りつける。
 懐かしい本物の匂いに鼻を摺り寄せ、頬ずりをして、頭の先から足の先まで、足の先から耳の先まで、何度も何度も繰り返し繰り返し力任せに押し付けた。
 頭の中は空っぽで、ただ全身で霧島に体を擦りつけた。頭を手で抑えられても、足を両手で掴まれても、抱きかかえられても、何をされても足りなかった。


「分かった、分かったから――」


 霧島の手の平に額を擦りつけ、指の先から腕まで体をくねらせながらその抵抗をひるがえす。起き上がったその腕の中でもまだもがき、胸から肩にまでよじ登る。首筋に鼻を埋め、柔らかい髪に顔を突っ込み、耳を甘噛みして首にも頬にも胸にも鼻を頬を頭を摺り寄せる。


「――もう、分かった、分かったって‥」


 肩から胸元に降り顎に額を擦りつけ、そこから首筋を噛もうとした時、両手で軽々と引き剥がされた。

 そのまま高く持ち上げられて、まだ足りなくて、足りなくて、お帰りを言う余裕もなく、代わりにおかしな声が出た。

 それでようやく我に返た。

 見れば懐かしい瞳がこちらをじっと見つめていた。

 濡れたように黒く澄んだ切れ長の瞳――前よりも少し大人びた深い黒に、ようやく一呼吸ついた。

 お帰り、霧島。

 やっと小さな声が漏れた。
 掴んだ両手がそっと緩む。


―――生きていてくれて、ありがとう。


 こぼれるような声だった。


 それはもうずっと、長い間待ち望んでいた声。

 何よりも聴きたかった声。

 大好きな霧島の、本物の声―――。


 真っ直ぐに見上げるその瞳がいつも優しくこちらを見つめていることを、もうずっと昔から知っている。

 

 お帰り、霧島。

 生きていてくれて、ありがとう。



 どのくらいの時間が経っただろう。
 霧島の腕に抱かれたまま、その初めての景色を眺めていた。

 足元の白い点はまだまだ増え続けている。
 さっきよりも輝きを増した一帯に、濃厚な甘い果実のような匂いが溢れていた。

 青黒く澄んだ空に怪しく光を放つ満月―――その下は見渡す限り青白い光を帯びた無数の星の群れ―――。


 マーヤのくるりと丸い大きな瞳がよみがえる。

 
“満月の夜にその小さな花がいっせいに開いて、野原を一面埋め尽くすんだ”
 
“その無数の花に月の光が反射して、まるで天の河のように浮かび上がるんだって”
 
 

 
 ぼく、大きくなったらここへ行くんだ。


 霧島の腕から下に降ろされ、見るとその小さな点は花だった。

 さっき香った匂いよりも濃密なむせるような甘い香り。
 その花は足の踏み場もない程ひしめき合って咲いている。
 厚みのある花びらが月の光に反射して、照り返す光に目を細める。


“僕、出発の日決めたよ”


 霧島は“まるで星の群れの中にいるような幻想的な景色”に立っていた。

 青い夜空へ向かって息を吸い込み、
 
 
 
「―――――――マーヤっっっ・・・・―――――――・・・・・!!」
 
 
 
 無音の草原に霧島の大声が響き渡った。
 
 
「―――やったぞっっっ―――・・・・・っ――――!!」
 
 
「‥‥―――マーヤっっ・・・・・・―――――っっ!!!」
 
 
 
 聞いたこともない大きな声に、全身の毛が逆立った。


っ・・・――――‥‥おまえが見たい景色はっ・・・・っ――――‥‥‥・ここにあるっっっ――――――っっ―――――!!


 両手を強く握りしめ、霧島は全身の力を込めて声を張り上げた。


「戻って来いっっ‥‥‥・・・・――――マーヤっっ‥・・・・・!!」


 大きく息を吸い込んで、胸いっぱいに空気を溜め、霧島は大空へ両手を広げた。

―――っ・・‥もうっっ―――っ・・・・どこへも行くなっっ‥‥・・・・


おまえはずっとっっ‥‥・・・・―――ずっとっ――――‥‥・・・・・


―――‥‥っ―――‥‥ここにいろっっ‥‥・・・・・――――‥‥!!


「―――‥‥‥マーヤっっ‥‥‥―――――――っっ・・・・!!」


 遮るものが何もない空へ放たれた、渾身の叫びだった。


“霧島”
“僕、出発の日決めたよ”

“ついに夢が叶うんだ”

“きっと史上最高の絶景が見られるよ”


そして、霧島は大声で泣き出した。

誰に気遣うこともなく、何も抑えず、全身の力を振り絞るように泣き叫んだ。

「帰って来い‥‥――――‥マーヤ‥‥――――――‥‥‥」

 草の上に両手をつき、体をかがめ、肩を震わせた。

 漏れ出る声は小さく、とても弱々しかった。


 霧島はマーヤに会いたかった。
 もう一度、マーヤに会いたかった。


 少しずつ変わっていく香りの中で、崩れるようにうずくまる霧島の体はずっと小さく震えていた。


 霧島がここにいる。

 霧島が今ここにいる。


 すすり泣く声を聴きながら、霧島の体温を感じていた。

 

 霧島が帰って来た。

 

 霧島が帰って来た。

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