長編小説「きみがくれた」下ー⑩
「このまま、ずっと」
お風呂の部屋のドアが開いて、出て来た霧島を見上げると、片手で楽々と抱き上げられた。
タオルを掛けた肩に濡れた髪の先から雫が垂れる。
リビングを通りかかった霧島に、マスターがキッチンから声を掛けた。
「2階の部屋、使えるようにしてあるよ」
アパートの部屋をそのまま移動しただけだから、ベッドもあるし布団も昨日干したばかりだよ。
けれど霧島は昔使っていた“納戸”を使わせて欲しいと言った。
階段の下に放られた濡れたタオルの側で霧島の動きを見ていた。
「手伝おうか」とやって来たマスターに霧島は納戸の中から「いい」と軽く返事をした。
畳んだソファベッドを廊下へ出して2階へ運び、代わりに丸めた布団を抱えて下へ降りて来た。
霧島はそれを納戸の床に敷き、枕を2個並べた。
新しい寝床は2階の部屋の匂いがした。
布団の上に腰を下ろした霧島のお腹の辺りに乗り込んで、霧島のシャツの匂いを確かめる。
霧島はナップザックを手に取り、中に手を入れた。
湿った胸元に足を掛け、首筋に鼻を寄せる。
シャツの間から腰の辺りに、ナップザックに足をかけ、手首に、腕に、それからまたお腹の辺りに入り込み、動く霧島に構わず体を摺り寄せる。
霧島は荷物を触ることを諦め、両手で丸ごと抱き寄せてくれた。
冷たい指先が額を撫で、耳の後ろを滑る。
顎の下を撫でながら、「こんなに甘えたっけ‥」とこちらを覗いた。
白い照明の下で霧島の切れ長の瞳がこちらを見つめる。
その手に、腕に顔をこすりつけ、喉を鳴らした。
「きりがないな‥別にいいけど」
そう言って霧島は頭の上からしっぽの先まで手の平を滑らせた。
霧島のお腹の上で丸くなると、背中をゆっくり撫でてくれる。
「元気で、よかった」
そうつぶやいた声が耳の奥で温かく響いた。
コンと壁に音がして、ドアの隙間からマスターが顔を出した。
「央人、明日亮介君のところへは何時ごろ行く?」
「‥決めてない」
「そう。冴子ちゃんは今出張中でね、明日の夕方くらいには帰って来るそうだよ。」
マスターはこちらに目配せをしながらそう言った。
「‥うん、とりあえず、亮介には会いに行く」
霧島は頭からタオルをかぶり、両手で髪を拭きながらそう答えた。
「そうか。それなら出る前に声掛けてくれるかい。差し入れにサンドイッチでも作ろうかと思ってるんだ。持って行ってくれると助かる。」
「うん」
「亮介君、この数日冴子ちゃんがいなくて大忙しなんだよ。うちに顔を見せる時間もないみたいで、僕もこのところは会ってないんだ。亮介君一人でもお店は普段通り開けているから、朝早く市場にも行って、配達もして、子供たちのお世話もして、きっと自分はろくに食事も摂れたいないんじゃないかな。」
マスターはそう言って「今の亮介君はフル稼働だよ」と苦笑した。
「子供たち?」
霧島はタオルから顔を出しマスターを見上げた。
「あぁ、そうか。央人は美空ちゃんしか知らないか。下にね、男の子がいるんだよ。今年のクリスマスで5歳になる。陽君ていう、亮介君をそのまま小さくしたようなかわいい子でね。これがまたそっくりなんだよ。きっと会えばすぐに分かるよ。」
「ハル‥」
「うん。太陽の陽と書いて、はる。陽君が生まれた日はとても寒い朝だったんだけど、外は雲一つない青空で、その真っ青に済み渡った空に、真新しい太陽が照り輝いていたんだって。それで陽ってつけたそうだよ。」
美空ちゃんと空繋がりだなんて亮介君らしいよね、とマスターはにっこり笑った。
“美空ちゃんてかわいい名前だよね”
“名付けたのは亮介さんなんだって”
タオルをかぶった霧島の横顔は、マスターの姿から外れていた。
“美空ちゃんが生まれた日は快晴で、病室の窓の外に、突き抜けるような真っ青な空が輝いていたんだって”
“亮介さんらしいよね、ってマスターと話してたんだ”
「――――‥‥」
おやすみ、と声を残して、マスターは静かにドアを閉めた。
霧島はタオルを頭に乗せたまま、ぼんやりと窓の外へ目を向けた。
空は明け方に近付いていた。
見上げると、その横顔は今も変わらない。
霧島が、ここにいる。
布団にもぐると、変わらない大好きな匂いに包まれた。
また目が覚めても、霧島がここにいたらいい。
ずっと、これからもずっと、
霧島がもうどこへも行かないといい。
お風呂上がりの香りと霧島の匂い。
目が覚めても霧島がここにいますように。
もう一人でどこかへ行きませんように。
霧島の寝息が聞こえるまで、その温もりを感じていた。
もう暗いうちに起き出さなくていい。
霧島の寝息が聞こえだしても、その温もりに包まれていた。
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