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長編小説「きみがくれた」下ー⑦

「夕暮れの風」


 外はもう日が傾きかけていた。

 まだ水色の残る空の遠くに、薄ピンク色の雲が霞んでいる。


「長い時間、お邪魔しました」

 霧島は玄関先のスロープでマリコに深く頭を下げた。

 片手で抱き上げられ、見上げると、まだ空に溶けそうな細く白い月が浮かんでいた。

「また、いつでもいらしてね」

 霧島が歩き始めると、マリコはその後についてそう言った。


 庭先で霧島は振り返り、もう一度軽く頭を下げた。

 土肌ばかりの庭を進み、古い木戸に手を掛ける。

 通りに出て、振り返るとマリコが扉の外に立っていた。
 霧島は最後にもう一を深々と頭を下げた。

 
 ゆっくりと前へ進む霧島の肩越しに、小さくなっていくマリコを眺めていた。

 淡いピンク色の空の下、白いブラウスに水色のスカート、白い髪がゆるい風に吹かれている。
 空色のとんがり屋根、白い壁。
 レンガの塀に囲われた、おとぎ話のような家。


 と、その時―――

「――‥‥霧島君‥‥!」

 霧島はその声に振り返り、駆け寄るマリコを待ち受けた。

 そこまで来ると足を止め、霧島を見上げるその目から大粒の涙が零れている。

 霧島は驚いてギターケースを下ろした。


 マリコは両手で口元を押さえ、震える声を絞り出した。

「――‥ひとつだけ――‥‥」

 その手を小さく振るわせて、涙に顔を歪めながら、マリコは祈るようにこう言った。

「――――ひとつだけ――――お願い―――‥‥‥」

 止め処なく流れるその涙を、霧島はどうすることもできなかった。
 ただ目の前で固く目を閉じ、細い肩を縮めるマリコを、霧島は静かに見守った。

 
 そしてマリコは涙を溜めた瞳で見上げた。


「‥‥抱きしめさせて――――‥‥―――」


「‥‥――――‥‥‥」


 その声は喉の奥で小さくかすれ、やっと聞き取れるくらいだった。
 口元で小刻みに震える指に涙がいくつも流れていく。


 霧島に地面に下ろされ、それからナップザックも側に置かれた。
 見上げると霧島は真っすぐにマリコと向き合っていた。

 マリコは両手で目元を拭い、けれど涙はあとから溢れた。


 ゆっくり一歩、二歩と踏み出すと、両手を広げ、霧島の背中にそっと回した。

 霧島よりもずっと小さなマリコが、自分よりもずっと背の高い霧島を力いっぱい抱きしめた。

“大きくなって―――”


 通りに夕暮れの穏やかな風が吹き抜けていく。

 どこかで春の花が咲いている。


 マリコにしがみつかれたまま、霧島は涙に表情(かお)を歪めた。

 霧島を抱きしめて、声もなく肩を震わせるその姿は、いつかの冴子と重なった。


「―――お帰りなさいっ――――‥‥‥」


 霧島の胸の中でくぐもった声が微かに聴こえた。

 マリコは霧島の体に抱きついたまま、ただ静かに震えていた。


“お帰りなさい―――”


 霧島がその言葉に答えることはなかった。


 街に鐘の音が鳴り響いた。

 マリコは霧島から手を離し、そして一歩後ろへ下がった。


「――――ありがとう――――‥‥」

 溢れる涙をそのままに、マリコはそっと微笑んで見せた。


「どうか、体に気を付けて―――‥‥」

 夕暮れの空の下、マリコの止め処なく流れる涙に霧島は声もなく頷いた。


 荷物を手に取り、ギターケースを肩に担ぐ。
 深々と頭を下げて、霧島は再びマリコに背を向けた。

 
 正面に夜が近づき始めていた。

 ゆっくりと足を進めるその後を歩きながら、見上げるとお揃いの万華鏡がギターケースの金具に揺れていた。


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