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【小説】『規格外カルテット』9/10の下のb

(10回中9回目の下のb:約4800文字)


「僕のことをいつもあだ名で呼んでくるのは、もしかしたら、『蜂須賀』って」
 言われるまで気付かなかった引っかかりを、胸に感じた。
「文字を思い浮かべただけで、ちょっと体がこわばったり、息が詰まったり、しているね」
「はっきりと、気にした事はありませんでしたけど……」
「マサルだったら?」
 マサル、でまず思い浮かんだのは『優』とか『勝』で、また引っかかりそうな気がしたけど、
「下の名前は、大きい小さいの、『大』一文字なんだけど」
 何だそれなら大丈夫だって、ホッとした感じがこれまでに思っていたよりも大きかった。
「大さん……。はい……」
 もう少しだけ、次はもっとはっきりした笑顔を見せてくれた。
「カナだったり、カナで浮かべやすい名前は呼びやすいんだ。それで咲谷さんは『ルミちゃん』になるのか」
 ぐぅっ、って思いっきり息が詰まる。誰のことか気付かれていないなんて、もちろん思っていなかったけど、ルミちゃんとは知り合ったばかりで浮かれまくってたしいつも近くにいられていいなぁってやっかみもあって、思い返すとぜんっぜん言わなくてよかったことまでベラベラと、しゃべり倒してしまっていて今ものすっごく恥ずかしい。
「何か、聞いてます……?」
 うん、って大さんはこれも仕事の流れみたいな調子だけど、
「下の名前なれなれしく呼ばれて困るって、バックヤードでぼやいてた。もしかして『咲谷』がそれほどにはツラく感じないなら、施設にいる間は名字で呼んだ方が、あの人は助かると思うよ」
 完全に分かった上で忠告、してくれてますよね。ぐうの音も出ませんよね。
「しかしそれは、大変だな」
「え」
「君の、その感じ方は、相当に苦しいはずだし決して、笑えない。状況によっては誰にでも起きるものだ」
 これまでに見せられたり聞かされてきた反応と、全くちがった声に言い方で、誰か別の人の話をされているみたいな気分になる。
「長い間外国で暮らしてきた人が、いきなり『書かれた文字』を大切にする文化の真ん中に、放り込まれる。時には内容より音よりも、字の形に美しさが大事にされるんだ。外から見れば充分に、異質、なんだけどまずはそこになじむ事を迫られる。
 その上、文字が書けなければ、書けても上手に見えなかったり、間違いが多いように見た人から思われれば、頭の良し悪しに度合いまで、勝手に決め付けられてしまう。それも堂々と、まるで、当然みたいに。
 外国から来たんだって見た目で思える人だったら、まだその見方は和らぐけど、それもあんまり誉められた様子じゃないと思うけれど、そうでなければ事情があるかどうかも考えずに、いや事情があっても同じ国の人間なら、書けて当然みたいに思い込むし、書けない人を平気で笑ってみせる。
 書けすぎてもまたいけないんだ。おかしな話だけど、周りの人達から『仲間』と思ってもらえる程度に、留めておかなくてはならない。付き合っていける社会集団に、その中での立場、振る舞い方に親しみやすさまで決まってしまう。それも『なんとなく』で。つまり、はっきり言える理由も無く。
 これでは言葉に文字そのものが怖くなっても仕方がない」
 心当たりがありすぎてしかも、当たり前みたいに言われ続けてきたことなのに、つまり何を言いたいかが、全然ちがっていて、これってそのまま受け取っても大丈夫なのかなって不安になる。
「良くないんだよ。本当は。そういう、伝える努力に伝えたい気持ちの方は放っておいて、知らない方が伝わらない方がおかしいみたいなコミュニケーションは、たとえ、勉強を促すためだとしても僕は、誇りに思えない。むしろ、恥だと感じる」
 いや。大さんに恥だと感じさせるのも、こっちの頭が悪いだけなのにって、つい浮かんでしまって自分でも、何だコレ、ってなる。どこまで染み付いてるんだこの、自分がダメなんだって感じ。
「僕も、申し訳なく思う。担当になってまだそれほど長くないけど、堅苦しい話し方を、つい選んでしまうって自分でも思ってるから」
「堅苦しくても大さんは何だか、分かりやすいですよ」
「そうかな。それなら少しは、ありがたいけど」
 さっきからそうだ。やさしく聞こえる、ってほどじゃないけど多分、むずかしい文字が浮かびにくい言い方を、選ぼうとしてくれている。うわどこまで良い人なんだこの人。あと言葉のポテンシャルものすごいな。
「それでも君は、これまで相当に苦しめられてきたはずだ。どこに行っても何を見ても、怖いものばかりになる。人の話を聞いていても。特に、公的な場や大事に思われている会議ほど、みんながみんな難しく聞こえる言い方を、使いたがるから。
 一つ一つはそれほど気にならなくても、毎日あちこちでずっと、『怖いもの』にさらされ続けている。それも、自分では何が怖いのかはっきり分からないままだ。ずっと、強いストレスが掛かっていたはずだし、思うように身体が動かなくなってもおかしくない。ごくフツウに起きる反応だと思う」
「フツウ……」
 って思わず飛び出していて、
「ごめん。『普通』も画数が」
 って大さんが気にしそうになったから、「いえ。そうじゃなくて」って打ち消した。
「今までフツウって、こっちには、一生向かってこない言葉だろうなって、本当にいるのかどうかも分からない、エイリアンみたいに思ってたんで」
 腕を組んで大さんは、ちょっと長めに考えて、うんって一回うなずいてきた。
「いないこともない、と僕は思うけれど、宇宙から見ればまさしく僕たちがそれ、という意味ではなるほど、エイリアンに近い気がするね」
 あ。良い人だけどこの人、考えすぎるんだ。冗談とか軽口が通じない。
 困ったところもあるんだな、と思ったらだけど、気がラクになってきた。ずっと自分とはくらべものにならないくらい、しっかりした人と話しているような気持ちでいたから。
「これから、どうしよう。正直に言って何か呼び名があると助かるんだけど、名字は?」
 字面を思い浮かべると冷や汗が出る。画数は相当に少ないけど追い出された思い出がしっかりあるし、「追い出されるほどの一体何をしたんだ」って、大さんから思われるのも話すのもキツイ。
「名字も……、出来たら、その……、下の名よりは耐えられますけどでも……」
 うん、って大さんはそれ以上こだわらずに流してくれた。
「じゃあその、呼ばれていたニックネームは?」
 それだったら全然引っかかりがない、気がしていた。
「シロです」
 ああ、って分かったみたいな声が聞こえたけど、多分外れている。名字から取られたわけじゃなくて。それもあったとは思うけど。
「フランス語で、その……、『ミサイルの地下格納庫』……」
 へえ、って大さんはとても明るい声になって、
「面白い」
 今までで一番はっきりと分かる、楽しそうな笑顔を見せてくれた。
「外国人で、何考えてるか分からないってニュアンスも、入っていると思いますけどね」
 胸の真ん中が大きく、ドクンと鳴って、わあ面白く思ってもらえたんだうれしいなって、感じているんだと思ってたけど、
「それもあるのかもしれないけど、『なめてかかると怖い』ってイメージも伝わってくる」
 もう一回大きく、ドクンと鳴って、あれちょっとこれ、痛いくらいじゃないかなって、冷や汗が、出る前みたいに思えてきて、
「良い名前をもらえたと思うよ。外国で、一人で戦って行く時に、なめられずにいる事はきっと、大事だろうから」
 次の、ドクン、が来たらいきなり、怖いの真ん中に引き戻された。
 うわ、っておどろくヒマも無いくらいに、頭の中が、真っ黒に思えるほどスキマも無い感じにみっしり詰まった、「怖い」だらけで、言葉なんか出てこない。今どこに、誰といるかだって浮かばない。おなかの中身に内臓も全部吐いちゃうみたいな叫び声と、頭がガンガン痛むみたいな涙だけだ。それが全然、止まらない。
 なめられるな、なめられちゃダメだって、たった一人で他所の国の、空港に立った時からずっとずっとずっと、身体中に刻み込むみたいに思い続けていた。それが何より大事だったし、それだけで良かったんだ! 実力さえ見せ付ければ誰からだって笑われないんだって!
「息を、吸おうか」
 いつの、誰の声だかもう分かんないけど、うっとうしい! 息なんか、吸ったってもうムダなんだって、ボクなんかボクなんかって、思いながらムカつくくらいに結局、吸ってるけど吸い込んでるけど! 吸ったらその分吐き出すしかなくなるくせに!
「何もかもっ……、全部、投げ出すみたいに打ち込んでたんだ! アレがなくなったら、ボクなんかなくなっちゃう!」
「うん」
「だけどっ……、覚えていたくない! 忘れたいんだ! 誰からも、忘れられたいしもう……、お願いだから思い出さないで! もうっ……、『あの名前』を口にするのだって嫌だぁっ!」
 う、ん、って聞こえた声は少しつまる感じがした。
「そんなんじゃない! そんなんじゃないってずっと、言ってるのに! 誰にもっ……、聞いてもらえないっ……! ちょっと、しゃべっただけで何だか分かんないけど、ニタニタクスクス笑われるし……、まともに話してくれないし、何の話されてんのか分かんない! 怖いんだって気持ちが悪いんだって、出来ませんってボク言ってたのに!」
 ウソみたいにあっさり、叩きつぶされたんだ。信じてきたものも積み重ねたものも全部、それまでのボクなんか、吐き捨てたいくらいにうすっぺらな、役にも立たない紙切れみたいに。
「『怖いはずがない』って『出来ないわけがない』って……、『そんな、弱音を吐くとは思わなかった』って『精神力はどこに消えたんだ』って……、『その程度の人間ならもういらない』って……! じゃあボクは何! ねぇボクって何! どこにいるの!」
「シロくん」
 う、て犬みたいな声が出た。
「さん、にしようか。シロさん。聞こえるかな」
 そうか犬だったってちょっと、ホッとした気になったけど、待っても何にも聞こえてこないから、「う?」って少しだけ、首をかたむけた。
「僕は、君を知らない」
 みっしり詰まった真っ黒に、スーッと線が入って行く感じがした。
「話をしていく中で、こうだったのかなって、今の思い付きで話してみただけだ。僕は君の事をまだ、何も知らない」
 まっすぐ細かく入った線で、少しずつ分かれて、割れて行って、見える向こう側が少しずつ広がって行く感じで、何だコレこんなにうすかったんだって。
「だけど、大丈夫だ。僕が何にも知らなくたって君は今、ここにいる」
 目に映ったのは自分の両手、だけど、さっきまで見ていた感じとちがう。どうちがうかって爪の形とか、指一本一本の長さとか、太さとか、一、二、三ってそれぞれに、三つある節とか、手のひら側の線とか手の甲の、左側薬指の付け根に一つだけあるホクロとか、あれボクの手って、手だけでもこんなにたくさんのデータを持っていたんだっけって、暗い中でもルミちゃんだったら、さわってみてボクの手だって分かってくれそうなくらいに。
 正面から箱のティッシュが差し出されてきて、二、三枚引き出す指の動きとか、上からなぞっていく顔の形、おでこに目の辺りのくぼみにハナに、下のクチビルとか耳とか、ぺらっぺらの紙切れに水分が染みて行って、顔からはなくなっていく感じとか、一つ一つがちょっと前までより、くっきりしてて、何でコレ今まで感じ取り切れずにいたんだっけ。
 気が付くと右側の足元には、小さなゴミ箱が置かれていて、すごいやどれだけだよ、ってちょっと、おかしく感じた。目の前から立ち上がった気配に合わせて、
「大さん。 ボク……」
 顔を上げようとしたけどまず、ため息が出た。

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