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【小説】『規格外カルテット』7/10

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(10回中7回目:約4200文字)


7 ポイズンミルクフォンダン


 ここで人によっては恐ろしいかもしれない、ある事実について語っておきたい。
 予防接種のようだった、ちっとも良くなんかなかった、といった経験談の方が多く広まりやすい処女喪失であるが、この世には、それまでに経験した事の無い強烈な快感に、脳内麻薬が噴出し、一、二週間ほどはっきり言えば、トリップ状態に陥る女性も現実に存在する。
 とりわけ悪い虫など付かないよう親元で長い間大切に、無菌状態の温室で育てられたような娘に起こる傾向が強い。
 身も蓋も無い言い方をしてしまえば、女体にとっての性交渉は、単に感染だ。
 本来それまでの自分には存在していなかった、別個体に由来する細胞に細菌に、微生物にバクテリア、それらの集合体に体内の、奥深くを浸食される。その瞬間から免疫機能はフル回転だ。個体差が大きい事例であり容易に出回る逸話ではないが、一週間ほどは内臓の内側が痛み、月経に似た出血が止まらず、三十七度を少し超える熱が続く、といった身体症状となって現れる。
 それでいてなお脳内の景色は、春めく色とりどりのお花畑。
 とても通常通りの業務が勤まる状態ではなくなってしまう、者もいる。繰り返すが、自前の免疫力に左右される事柄であり、個体差は極めて大きい。
 白井みるはその週まさしく、その状態にあった。決して喜ばしい事態でもない。通常通りの仕事が出来ない、という事は、大切に育てられた結果真面目に誠実に働きたがる者であればあるほど、耐え難い苦痛になる。
「みるさん、は……」
 めくるめく官能の大洪水と共に、大量の細菌群を送り込みやがった、悩ましくもいとおしくてならない蜂須賀 大の、妙に情けない困り顔など、見たくはないのである。彼に許されるのはただ、初めの驚きは仕方がないとして、思いがけず最愛の者を見出だした時にのみ現れる、輝くような喜びの笑顔でなければならないのだ。
「どうして今日ここに、いるのかな。その、仕事は?」
 近寄りながらかけられた、仕事、の一語が見た目にも明らかに、引っ掛かった。
「……有給が、貯まってていつ使っても良いよって、言われてたから、使わせてもらったの」
 もちろん正式に、手続きを踏んで状況も許しての対処だが、理由など言えない体調不良を心配されて、根が真面目なだけに罪悪感が募っている。
「そ、れは昨日の電話とか、メールとかで伝えておいてほしかったなぁ……」
「伝えようと思って昨日も、ここに来たのよ」
「まさか」
 もちろん通常の彼女であれば、連絡も無く恋人の勤め先に顔を出すなど、有り得ない行動である。しかしながら現在の彼女は、繰り返すが通常の状態にいない。
「大さん、バイクで通勤してるって、聞いてたから、ちょうど仕事が終わったくらいだろうな、って思って、駐車場へ」
「って、事はつまり」
「聞いてた」
 女体の人生で、ただの一度だけ巻き起こる、かもしれない、感染症による暴風雨の真っ最中だ。常識外れは承知の上で是非に及ばず許容されたい。
 従って処女を奪っただけで後は捨て去ったような者どもは、気付かないうちに末代までの祟りを身に負っている、かもしれない、と思っておいて差し支えはない。
「それはだからどうして昨日の電話で、話しておいてくれないかなぁ」
「私の方だってそう思ってたのよ! 何でもなかったならどうして、昨日の電話で何にも話してくれなかったの?」
「いや何でもなかったから話さないよね。心配させるからね」
「そして」
 通常の彼女であればやらなかったような、初めて間近に目にした名前も知らない女の人をにらみ付ける、なんて事も、もう簡単に出来ちゃうんです。
「どうして告白してきたその方と、今二人だけで仲良くしゃべっていらしたの?」
 プッ、と吹き出しながら咲谷 瑠美も、元喫煙所の端っこに立ち尽くしたままの二人のそばまで、歩み寄って行く。
「おいおいおい。まさかとは思うが殿下の宝刀、『この泥棒猫!』が飛び出しやしねぇだろうなぁ」
 暗い赤に染め上げ胸まで垂らしたサラサラストレートな髪といい、社名ロゴ入りのジャケットを羽織っているとは言え存在感が伝わるバストといい、一つ一つのパーツが華やかに整った顔立ちといい、恋敵と見ている中ではことごとく不安しか煽らない。
 先ほどから覗いていた限りチョコレートは、受け取られずになぜか破壊する形で捨てられたようだけれど、蜂須賀 大はその一粒一粒を拾い上げ、手渡しつつ目を見合わせながら語りかけ、ついには談笑している様子であった。
 甘いわ。甘すぎるわ大さんったら。女性の好意を断る時に変な期待なんか持たせちゃダメ!
「お嬢ちゃん、あんたどうやら現場は見てないよね。コイツに告白してたのは、うちの利用客」
「咲谷さん、個人情報」
「分かってるよ」
 そのアイコンタクトも含めた小声でのやり取りが、もう爆発寸前に気に入らない。
「とにかく私じゃないから、安心しな」
「あら。だったらどうして貴方、誰もいなくなったバイク置き場の壁を、蹴りながら泣いていらしたの?」
 ぐぅっ……、と声がして、やり込めた、とにんまり出来たのも束の間、あろうことか愛しの蜂須賀 大がクスクスと、自分にこそ向けられたい可愛らしさで笑っている。
「見、てやがったかこのっ……、蜂須賀てめぇっ、笑うなっ!」
「すみません」
「大さん!」
 蜂須賀の、真正面に向き合って、今の彼女にとっては黄門様の印籠、金さんの桜吹雪にも等しい世の真理だ。
「もっと、毅然とした態度をこの方に、見せて頂かなければ困ります! 私は先日の、聖バレンティヌスの夜、とうとう貴方に全てを捧げてしまったんですよ!」
「今ここで堂々と言って良い話じゃないよね!」
 すぐさま真っ赤になった蜂須賀に、咲谷は大爆笑だが、
「笑わないで下さい!」
 女の笑い声がまた、白井みるの怒りを増幅させる。
「貴方には、たくさんいらっしゃる男の方の中の、お一人に過ぎないのかもしれませんけれど」
 眉を少しひそめた蜂須賀に、白井みるは気付かない。蜂須賀の胸に寄り添いながら宣言する。
「私には、この方こそ終生愛を誓えると思い定めた、ただ一人の殿方なんです!」
 笑うより他に仕様がない、とは咲谷瑠美にとってまさに、この状況だ。
「お嬢ちゃん……、言っとくけど、私の前に出て危なっかしいのは、蜂須賀よりもあんたなんだよ」
 要は仕事仲間の助け船、を買って出る形で、白井みるに目を合わせて囁きかけた。
「私は基本女の子が好きだからね」
 人間の脳内も基本は、電気信号の伝達である以上、システムエラーは起こり得る。白井みるは開いた目をパチパチと、瞬きさせた後、大粒の涙を落とす、という言うなれば、バグを起こした。
「なんて……事をおっしゃるの……?」
 それを聞きながら蜂須賀は、眉をひそめ切って手を当てた顔をうつむけている。
「貴方の、お父様お母様がそれをお聞きになったら、どんなにか……、お悲しみになるか……」
 ほろほろと、湧き出ていた涙をハンカチで拭い去ると、いきなりの晴れやかな笑顔になった。
「分かりました。それでしたら私と」
 咲谷の目の前に歩み寄り、差し出した両の手で、咲谷の両手をやわらかく包み込む。
「共に神様に祈りましょう」
 一瞬、絶句したものの咲谷は、我に返った。
「おいマジで言ってんのかてめぇ」
「大丈夫です。道を踏み外し、汚れ尽くした魂でも」
「汚れ尽くしたって。おい随分だな」
「神様に、真摯に祈る事できっと、お導きを頂けます」
「ヤバいヤバいヤバい。悪い蜂須賀の彼女だって、分かっちゃいるけどコイツヤベェ女だ」
「みるさん!」
 声と同時にみるの手は、ぱ、と離れた。
「咲谷さんに、謝ってもらいたい」
 離れたままで時が止まったかのように、固まっている。
「頭に血が上っていて気が付いていないみたいだけど、さっきからの君の発言は、今初めて会ったばかりの、君はまだ何も知らない人に対して、失礼だ」
「大さん……」
「申し訳ないけど僕は、君のその、人の話をまともに聞かずに思い込みで決め付けるところだけは、好きになれない」
 理由など現在の頭では理解できなくとも、感染源たる蜂須賀の言葉は彼女にとって、神の鉄槌に等しい。指先に三つ編みを細かく震わせて、次第に全身をわななかせながら、両の手を胸の前で握り合わせる。
「分かりました……。ごめんなさい。私は……、恥ずかしい事を致しました……」
 ワンピースの端を軽く持ち上げた、古風な頭の下げ方を見せると、
「もう決してお目にかかりません!」
 くるりと背を返し元喫煙所から見えている、施設の表口に向かって駆け去って行った。
「おい。追いかけなくて良いのか」
「大丈夫です」
「お前の彼女どんだけのお嬢様なんだよ」
「知りません。服装に話し方がそのまま、内面を表すものとも思いませんし」
 元喫煙所に並びで立ったまま、蜂須賀の方はスマートフォンを取り出す。
「別に、良かったんだよあのくらい、言われ慣れてっから」
「慣れなくて良いです」
「むしろ可愛い女の子に手ぇ握られながらでちょいラッキー、くらいな」
「慣れている、事にして、許して良い言い方でもありませんでした」
 白井みるの姿は表口を出てちょうど見えなくなった辺りだ。会話の間に操作を続けたスマートフォンを、蜂須賀はスピーカーを通さず耳に当てて使う。
「みるさん? うん。うんうん。分かってる。落ち着いて、聞いて」
 表情は特に変わらず怒ったままのように見えているが、
「さっき言ったところ、だけだから。他は全部、愛してる」
 回線の向こうで、青空を飛び回るように舞い上がっている、白井みるの姿が目に浮かぶようだ。
「聞こえた? 今日はもう家に帰って、ゆっくり休んで。じゃあ話はまた、後で」
 ピッ、と切る音と同時に咲谷は、溜め息をついた。
「お前ってやっぱ絶妙だよ」
「ですから絶妙、がかかる次の言葉が分かりません」
 嵐が過ぎ去った後の、妙にうつろな沈黙を二人して身に感じ取った後で、蜂須賀が言い出した。
「咲谷さんももしかして、聞いている話かもしれませんけど」
「何」
「今会った僕の彼女と、咲谷さんのまぁ、彼氏さんが」
 彼氏、と咲谷は一旦苦笑したが、
「まぁ、うん」
 と頷いた。
「双子の兄妹です」
「おい聞いてねぇよそんな話は全然!」

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