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2022年1月の記事一覧
「教える」と「教えない」の考察。
ぼくは、パートで
学習塾講師として働いている、
ということもありまして、かねてから
「教育」に興味がある。
とは言ってみても、
「教育」とか、「教える」とか、
と言うと、なんだか、ちょっと、
上から目線的というか、命令的というか、
そんなふうにも感じながら、
じぶんとしては「教育」に関して、
よいイメージを持ってない気もしている。
それは、おそらく、
「教育」の【教】という漢字が、象形文字では
どうしたらよいかわからない問題。
パート契約での学習塾講師として、
日々、小中学生の生徒さんたちに、
勉強を教えているけれども。
学習塾にて勤めながら、「教える」とは
とてもむつかしいことだなあ、と、
日々、実感している。
たとえば、中学生の数学でね、
問題の解き方がわからない、と訊ねられて、
まずは、この「解き方を教える」というのが、
むつかしい。ぼく自身が、ほんとうに
ちゃんとその問題のことをわかっていて、
しかも、生徒がわ
問題と、人生と、永遠と。
「問題」と言うのもね、
学校のテストとか、クイズとか、のように、
答えが定められている問題と、
はたまた、たとえば、
人生とは何か? のような、
答えが明確には定まらない問題があって。
どちらの場合の「問題」も、
むつかしいにはむつかしいけど、
どちらかと言えば、
答えるのが、よりむつかしいのは、
答えが定まっていないほうかなあ。
答えが定まっている、ということは、
どこかに「正解」があって、
「けっきょく、答えは何ですか?」と言ったこと。
高校生のとき、
ぼくは理系のクラスで、
数学は得意ではあったけれども、
国語が、とくに、苦手で。
たとえば、今でこそ、
本を読むようになって、
文章を読む、というのも、
するようにはなったけど。でも、やっぱり、
文章を読んで考える、というのは、
今もなお、むつかしいなあと思いながら、
当時を振り返れば、文章を読む、とか、
論理的に考える、とか、本当に苦手だった。
今でもなんだか覚えているのは、
心は、目に見えるか?
心は、目には見えない。
目に見えないのは、
心は、身体の内部にあるから。
とは言ってみても、
身体の内部を見たとしても、
そこでは、心臓は動いている、としても、
心は、無いのやもしれない。
いや、ぼくは、
身体の内部を見たことが無いから、
ほんとうのところはわからないな。
心は、どこにあるのだろうか。
はたまた、
心とは、なんなのか。
心自体は、
目では見られないけど、たとえば、
表情と
見えない火の入り加減。
お料理について、
まったくの素人のぼくは、
調理の何もかもがむつかしいのですが。
とくに、たとえば、
お魚やお肉の火の入り加減って、
わからないなあ。
生煮えではよくない、
って思いながら、ぎゃくに、
火を入れ過ぎてしまって、
素材が固くなることもあるし。
内部は見えないんだから、
どのくらい火が入っているか? って、
目では確認できないし。ともすれば、
外側からわかることがあるのか、もしくは
煮詰まるまで、煮詰めたら。
ぼく個人の用事としての
「やるべきこと」ってゆうのは、
ぼく自身がやらないかぎり、
先には進まない。
だれかがやってくれることもないし、
ましてや、ぼくの寝ているあいだに
小人さんたちが完成させていた、
ということも、ない。
たとえば、
部屋が散らかったまま、
旅行へと出かけて、帰宅すれば、
部屋は散らかったまま。のことと、
おんなじなのやもしれない。
とは言っても、その
やるべきことをやり