鈴木秀之

なまえはひでしと読みます。好きなことや考えたことや興味のあることを、じぶんのノートへ記…

鈴木秀之

なまえはひでしと読みます。好きなことや考えたことや興味のあることを、じぶんのノートへ記すみたいにnoteを書いています。/愛知県豊橋市/Desmond has a barrow in the market place Molly is the singer in a band

マガジン

  • 鈴木秀之のノート。

    (令和3年3月14日〜)

  • リッシンベン調査団はゆく。

    広い広い「漢字」の世界を、じぶんなりに調査・探索してみたいの。

  • 吉本隆明さんの講演を聴いてみたい〜。

    ほぼ日刊イトイ新聞「吉本隆明の183講演」より、吉本隆明さんの講演を聴きながら思った感想を書いてみるシリーズ。

最近の記事

役に立つことばとそうではないことば。

ことばによって、他人と コミュニケーションができる、もしくは、 じぶん自身の頭の中で物事を考えることができる、 というような、つまり、ことばには 二つの役割があると言われている。 このことを踏まえるとすると、ことばとは、 コミュニケーション及び物事を考えるための 「道具」である、というような 言い方もできるとも思うけれども。 ぼくが思うには、なんだか、この ことばとは「道具」である、というのは、 すこし抵抗があるようにも感じられて。 このうえでね、ことばには 二つの役割があ

    • ぼくもまたことばを使うのだから。

      ことばって、頭の中、もしくは、心の中で どのようにして生成されているんだろう? ってゆうのはさ、ぼくとしては よくわからないと言えばよくわからないなあ。 生成されることばには、たとえば とっさに思いついたことばもあるだろうし、 じっくりと考えだされたことばもあるだろうし、 忘れていたけれど思い出したことばもあるだろうし、 そんなとき、ぼく自身の中では 何が巻き起こっているんだろうか??? ぼくはね、これはじぶん自身の 性格的なことに由来するかどうかは知らないけど、 アドリブ

      • 折り合いをつけようとすること。

        昨日のブログでもしるしたけれども、 「考える」とはどういうことか? を考えるとするならば、昨日のブログのこと以外でも 思っていることがあって、それは、たとえば 「折り合いをつける」みたいなことなのですが。 つまり、じぶん自身と目の前にある世界との 折り合いをつけようとすることが、 「考える」である、ってゆうのをね、 このごろでは考えているの。 この目の前には、 世界が広がっているけれど、その世界を ぼくはどのようにして認識しているのか、 と言えば、じぶん自身の 目や耳や鼻や

        • 考えごとと悩みごとと通路。

          「考える」とは、どういうことか? ってゆうのはさ、これまでのぼくのブログでも 何度か書いているとも思うし、なおかつ、 今でもまだまだ考えている。 「考える」とは、どういうことか? がわからなければ、 「『考える』とは、どういうことか?」 も考えることもできないだろう、 というのは、この際、横に置いておいて、 でも、ぼくは 「考える」について考えられたい。 「考える」のことでよく言われているのは、 「考える」と「悩む」はちがう、 という考え方なのだとも思うけれども、 ぼくとし

        役に立つことばとそうではないことば。

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        記事

          否が応にも届いてくる月明かり。

          ぼくはどちらかと言うと、悩みごとなどなどを 頭の中でずっと考え込んでしまうたちで、でも、 そのような考え込む行為も、とくに じぶんの身になっていたりする気配も無いし、 さらにはさ、そんなような 頭の中で考え込むということは、つまり、 じぶん自身の頭の中の世界で生きている、 というふうにも言えるやもしらないなあ。 つまりはさ、ある意味では 頭の中で考え込む、とは、いわば じぶん自身の脳の中でこしらえた 人工的な世界の中だけで生きている、的な?! だからこそ、ぼくはね、これはぼ

          否が応にも届いてくる月明かり。

          矛盾と葛藤を通じて果たされること。

          人間の成長及び成熟とは、 どのようにしてなされるのか? と考えるときにぼくが思い出すのはね、 内田樹さんが書籍で書かれていた 「成熟は葛藤を通じて果たされる」のことです。 内田さんが著書『街場の教育論』でおっしゃるのは、 ここでは教師と子どもの関係性ではあるのですが、 このことを読みながら、ぼくは 子どもだけでなく、大人も含めて 人間の成熟とは葛藤を通じてなされる、 と考えたい。 なぜ、葛藤を通じて、 人は成熟するか? というのもね、 書籍の中でご説明されていると存じます

          矛盾と葛藤を通じて果たされること。

          憲法が作られたときの理念を鑑みながら。

          自民党総裁選挙のある立候補者の方が、 災害時、真っ先に現場へと向かう 自衛隊及び自衛隊員に関することが、 私たちの国の憲法に明記されていない。 おかしいと思いませんか? とのように言われていたのですが、 ぼくとしては、そのことについて おかしいとは思わないかな。 ぼく自身は、これまでの人生の中で 自衛隊のことが憲法に記されていないことを おかしいと思ったことは一度もなくって。 日本国憲法第九条第二項では、 【陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。】 と定められている項

          憲法が作られたときの理念を鑑みながら。

          争点と話題づくりについて。

          このごろのテレビのニュースでは、 自民党総裁選挙のことをよく見るけれども、 ぼくは党員では無いし、つまり、 その選挙で投票できるわけでも無いので、 興味は無いと言えば無いのですが。 でも、なぜ、党員しか投票できないような 政党代表者の選挙を、これだけ テレビのニュースで取り上げられるのだろう? というのは、頭の中で考えてみたり、 もしくはSNS等で意見を見たりしている。 それはおそらく、やはり 与党第一党である自民党の代表者が、 次の内閣総理大臣になるとされるから、 誰が総

          争点と話題づくりについて。

          本当のところはなにもわかっていなかった。

          ぼくの以前のブログでは、岡真理さんの著書 『ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義』 を読んだことを申しまして、 その後の先日はね、今年7月に刊行されました 岡真理さん・小山哲さん・藤原辰史さん共著の 『中学生から知りたいパレスチナのこと』を読み終えました。 そのときのブログでも申しあげましたが、 「パレスチナ問題」について、ぼくは やはりむつかしいと考えつつ、 でも、書籍を読むことによって 一気に全てとは全く言えないものの、すこしずつ 見えてくるものがあるのだろうと考

          本当のところはなにもわかっていなかった。

          自己紹介とは何か?(アイデンティティ&牡蠣フライ_mix)

          「自己紹介」って、ぼくは どちらかと言えば苦手なんだなあー。 いや、とは言えども、ぼくもある程度 大人の年齢なのだから、たとえば、面接等で自己紹介 (自己PR)をするようなときには、 その場におけるなんらかのことばをね、 じぶんなりには語れるとは思うけれども、 そういう状況じゃあない場合では、 印象に残るような気の利いた自己紹介なんて言えない。 この「note」では、noteを書くその人の 自己紹介をしるす文化もあると存じておりますが、 上記の理由より、ぼくはこれまで 自己

          自己紹介とは何か?(アイデンティティ&牡蠣フライ_mix)

          「自己中心的」はよくないのか?(惑星と逆行運動ver.)

          「自己」や「他己」に関するようなことを さいきんのブログでは記しているのですが、 さらにね、「自己」と言えば 「自己中心的」という考え方だなあ。 「自己中心的」という状態は、 一般的にはよくないとされている。 つまり、「自己中心的な人」とは、 じぶんのことしか考えていない、というかのごとく。 でも、ならば、 どういう状態がよいのか? を考えるにしても、 ぼくはよくわからないと言えばよくわからないな。 たとえば、この 「自己中心的」がよくないならば、逆に 「他己中心的」のほ

          「自己中心的」はよくないのか?(惑星と逆行運動ver.)

          とってもむつかしい自己満足。

          このごろのぼくのブログでは、 「自己肯定感」や「自己肯定力」や 「自己否定感」や「自己否定力」及び、 「他己肯定」や「他己否定」というような 「自己」や「他己」に関することを記していて、 そのような、たとえば、さらに 「自己」に関連する語句で言うとすれば、 「自己満足」についてかなあと思いました。 「自己満足」とは、一般的には よくないことだと言われていると思うけれど、 ぼくとしては、ほんとうにそうなのかなあ? ってえのも考えているのよね。 つまりはさ、この 「自己満足」

          とってもむつかしい自己満足。

          ぼくが生きるうえでの「御守り」として。

          「自己肯定感」や「自己肯定力」及び 「自己否定感」や「自己否定力」などのことについて、 前回noteではしるしたのですが、 そこから、また、さらに考えるとすると 「自己」という概念の反対として、 「他己」のことも考えられるかなあ。 つまりはさ、 「他己肯定」と「他己否定」のことです。 と、そう考えるときにね、 「自己肯定」や「自己否定」のほうは その対象がわかりやすい、つまり じぶんでじぶんを肯定・否定する、 という状態なのだと存じますが、 「他己肯定」及び「他己否定」は

          ぼくが生きるうえでの「御守り」として。

          「自己肯定力」と「自己肯定感」のちがいなどについて。

          昨日のブログでは「自己肯定力」や「自己肯定感」及び 「自信」について申しながら、ぼく自身はそれらを ぜんぜん持てていない、というところから じぶんなりに考えることをしるしました。 そのブログの中でね、ぼくは 「自己肯定力」の逆パターンとして 「自己否定力」というのを申しあげて、さらに、 このことばは、語句的には 「自己否定感」とはちがうと思っている、 つまり、どうちがうかと言うとすると 「自己否定感」と言ってしまえば、 ずっと、ひたすら、恒常的に、じぶんのことを じぶんで否定

          「自己肯定力」と「自己肯定感」のちがいなどについて。

          ぼくは「自信」が無いかどうか?!

          「自己肯定力」や「自己肯定感」ということばが、 よく言われるようになったのって、 いつぐらいのころだったっけ? いつごろから言われるようになったかは、 ちょっと覚えていないけど、でも、 そういうふうに聞いてぼくとしても 「自己肯定力」とか「自己肯定感」ってゆうものを、 養わないといけないなと思ったりもしつつ、 今になってもね、そのような 「力」や「感」はほとんど持てていない。 逆に、自己を否定しながら (おれはなんてだめなんだなあ〜!) と想いながら、夜中とか、夕方とか、

          ぼくは「自信」が無いかどうか?!

          ブログの中でよく使ってしまうことば。(逆接と仮説ver.)

          ぼくのブログの文章の中でね、ぼく自身が よく使ってしまう言い回しのことばってえのも、 いくつかあると思っていて、 そのうちのひとつが、 「けれど」系の語句なんだなあ。 つまりはさ、 「でも」とか、「けど」とか、「けれども」とか、 「しかし」とか、「されど」とか、「ですが」とか、 「とは言えども」とか、「そうとは言ってみても」とか、 そういうような「逆接」の言い方を、 ぼくはどうしてもしてしまうのよね。 このことは約20年前、ぼくがブログを始めたころより じぶんでも思っていた

          ブログの中でよく使ってしまうことば。(逆接と仮説ver.)