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とってもむつかしい自己満足。

このごろのぼくのブログでは、
「自己肯定感」や「自己肯定力」や
「自己否定感」や「自己否定力」及び、
「他己肯定」や「他己否定」というような
「自己」や「他己」に関することを記していて、
そのような、たとえば、さらに
「自己」に関連する語句で言うとすれば、
「自己満足」についてかなあと思いました。

「自己満足」とは、一般的には
よくないことだと言われていると思うけれど、
ぼくとしては、ほんとうにそうなのかなあ?
ってえのも考えているのよね。

つまりはさ、この
「自己満足」ということばとは、たとえば
表現をされている人の作品を見ながら、
それって、作者であるあなたの
自己満足に過ぎないんじゃあないの??
というふうにして使われるとも思うけど、ぼくは、
自己満足に過ぎなくって、つまり、
自己満足で何が悪いの?! とも思える。

ぼくだっても、日々、こういうような
ブログを記しながら、このブログもまた
自己満足なのだともじぶんでも感じられるけれども。
いや、ところがどっこい、
すべてのブログの文章において、
自己満足へも至れてないとも思っている。

自己満足、つまり、
自己を満足させることって、
案外、とってもむつかしいと思うの。

自己満足に至れたかのような、
けっこうよい感じで書けたかも、
なんてゆうのは稀なことで、そういうふうに言えば、
日々のぼくのブログとは、
負け続きの日々だとも言えなくもない。
でも、だからこそ、つぎは
じぶん自身を満足させられるようなものを書けたら、
と願いながら次回のブログを書こうとする、的な?!

そして、
「自己満足」のことを申すならば、その逆に
「他己満足」についても言及したいですが、
とは言いつつ、ぼくは、もう
「他己満足」のことは考えられないんだなあ。
つまりはさ、ぼくには、
他己を満足させる、というのは、もはや
むつかしいの域を超えている、って感じてしまう。

もしかしたら、ぼく自身の
ある文章を読んでいただき、そして
満足してもらうかのごとく思っていただいた、
という場合もあるやもしらない。
けれども、それを、日々、毎回、
あらゆる他己を、つまり
あらゆるすべての方々を満足させる、というのは
できないんだろうし、なおかつ、
他己が満足するかどうかは「結果」なのだと思う。
つまり、その結果を
追い求めれば追い求めるほど、
当初の動機みたいなものを見失ってしまう、
というふうにも想像できるけど。

このぼくのブログとしてはね、
とってもむつかしいとしても、でも、やはり
「自己満足」を目指せたい!
と考えている。そして、
そうは目指しながらも、どこまでの
自己満足のレベルを達成できるかはわからないけど、
ブログを書き終えて、公開して、
インターネットの片隅に置いておくみたいにして、
それを、もしも、だれかが気づいてくれて
読んでくれたら有難い、
と祈るようにして、
ブログを書けたいなあ、と願えたい。

令和6年9月12日


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