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本当のところはなにもわかっていなかった。

ぼくの以前のブログでは、岡真理さんの著書
『ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義』
を読んだことを申しまして、
その後の先日はね、今年7月に刊行されました
岡真理さん・小山哲さん・藤原辰史さん共著の
『中学生から知りたいパレスチナのこと』を読み終えました。
そのときのブログでも申しあげましたが、
「パレスチナ問題」について、ぼくは
やはりむつかしいと考えつつ、
でも、書籍を読むことによって
一気に全てとは全く言えないものの、すこしずつ
見えてくるものがあるのだろうと考えております。

こういうときにはさ、
書籍って、有難い、つまり、書籍じゃあなければ
知り得ないこともあると存じます。

今回、この
『中学生から知りたいパレスチナのこと』を読みながら
ぼくがいちばん想ったのは、書籍の巻末にて
藤原さんの書かれた「本書成立の経緯」より、、

 本書でこれまで三人が述べてきたとおり、歴史学の前提が大きく崩れていく感触を私は今もっています。世界史は書き直されなければならない。力を振るってきた側ではなく、力を振るわれてきた側の目線から書かれた世界史が存在しなかったことが、強国の横暴を拡大させたひとつの要因であるならば、現状に対する人文学者の責任もとても重いのです。

岡真理さん・小山哲さん・藤原辰史さん共著『中学生から知りたいパレスチナのこと』215-216頁

‥‥という文章より、ふと、
とあることを思い出したのでした。

その「とあること」というのは、
村上春樹さんの【壁と卵】のことばです。

【壁と卵】とは、
2009年2月、村上さんが
「エルサレム賞」という文学賞を受賞されたとき、
あいさつとして村上さんがお話しなされたものです。

そういえば、当時、
村上さんがエルサレム賞を受賞された、
というニュースを聞き、及び、この
【壁と卵】が掲載されている村上さんの著書
『村上春樹 雑文集』での説明の文章でも記されているような、
受賞に対する批判というのが、巷での
大問題のようになっていたのは、
強く印象に残っているけれども。
でもぼくは、今思えば、恥ずかしながら
受賞の意味も、及び、この
批判というものも全く理解していなかった。

本日のブログの最初で申しあげました書籍
『ガザとは何か』でも記されておりましたが、
2008年12月、つまり、村上さんの
エルサレム賞受賞の約2か月前になると存じますが、
イスラエルがガザを攻撃した。
(『ガザとは何か』11頁の年表によれば、その攻撃は
 翌年1月にかけて22日間続き、そして
 パレスチナ側の死者は1400人超とのことです。)
またその前年、つまり、2007年、
イスラエルがガザを完全封鎖した。

このような状況下において、村上さんは
エルサレム賞という文学賞を受賞され、かつ、
エルサレム市を訪れて受賞のあいさつをなされた。。。

 ひとつだけメッセージを言わせて下さい。個人的なメッセージです。これは私が小説を書くときに、常に頭の中に留めていることです。紙に書いて壁にってあるわけではありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれています。こういうことです。

 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

 そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

(太字は書籍より)村上春樹さん著『村上春樹 雑文集』新潮文庫、97-98頁

このことばの中で語られている、
「硬い大きな壁」とそこにぶつかって割れる
「卵」のお話しを含めて、これらのことばは
村上さんが、村上さんの著書を読む
イスラエルの読者へと感謝を伝えるためという旨が、
このスピーチの中でも言われているけれど、
それでも、このような内容を
そのとき、その場所で語る、というのは
どれほどの勇気と決意と思慮があったのだろうか。
と、今さらながら想像をいたしました。

つまりはさ、ぼくはその当時、
事態をなんにも解ってなかったし、
もっと言うならば、この
【壁と卵】のことばのことも、
本当のところはなにもわかっていなかった。

書籍『中学生から知りたいパレスチナのこと』にて、
藤原辰史さんが「本書成立の経緯」として書かれていた
【力を振るってきた側ではなく、
 力を振るわれてきた側の目線から書かれた世界史が
 存在しなかった】
ということばとは、つまり、村上春樹さんの
【壁と卵】なのだと解釈もできるだろう。
いわば、
【力を振るってきた側】の【壁】ではなくって、
【力を振るわれてきた側】の【卵】の側に立つこと。

そのことを想ったら、このような
今の時間になってではあるけれども、
込み上げてきて、泣きそうになったんだった。

ことばには、なにか
できることがあるだろうか?
いや、きっと
できることはあるのだろう。

そのことをね、ぼくは、あらためて
ぼくの頭の中の壁に刻み込めたい。

令和6年9月15日


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