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「教える」と「教えない」の考察。

ぼくは、パートで
学習塾講師として働いている、
ということもありまして、かねてから
「教育」に興味がある。

とは言ってみても、
「教育」とか、「教える」とか、
と言うと、なんだか、ちょっと、
上から目線的というか、命令的というか、
そんなふうにも感じながら、
じぶんとしては「教育」に関して、
よいイメージを持ってない気もしている。

それは、おそらく、
「教育」の【教】という漢字が、象形文字では
「鞭で躾ける」の意味がある、
というのを以前聞いたからやもしれないけど。
いちおう、パートなのだとしても
教育に携わる者として、
「教育」の大切さ、と、その反対に、
「教育」の危険さ、みたいなことも、
考えないといけない。とは感じているのよね。

前回noteでは、「教える」のことについて、
どうしてもわからない問題を、
訊いて、教えてもらって、
わかるようになることによって、
それがずっとつづいてしまえば、
その結果、わからない問題は、
だれかから教えてもらわなければ、
できなくなってしまうんではないか。
みたいなことを書きました。

これはさ、仮説なので、
そういうことがあるのかないのか、
ほんとうのところは存じませんが。
でも、そうともすれば、
「教える」ことは大事なのだとしても、
ある意味では、あえて
「教えない」ことも重要なのやもしれない。
ってえのは、なんとなく、考察してみたの。

たとえば、
「一を聞いて十を知る」
ということばを聞いたことがあるけれども。
その意味とは、
【聡明で、一部分を聞いて
 他の万事を理解すること。】(広辞苑第七版より)
とのことなのですが。でも、それは、
その「聞いた」人が、
聡明のように賢いから「知る」、ではなくって、
そもそも、どんな人でも
「一を聞いて、十を知る」ことはできて。
逆に、「言う」側、つまり「教える」側が
「十」まで言ってしまうから、それで
教え過ぎてしまって、
「知る」側の人も、「十」を知ることができない。
みたいな、そういう場面もあるのかもしれないな。

「十」でも、「五」でも、「二」でも、
それでは量が多くって、つまりはさ、
「一」を言うぐらいのほうが、
バランスがよいのやもしれない。

かと言いながらも、
言う(教える)分量を「一」にする、って、
そうなるように、
凝縮するというか、編集するというか、はたまた、
どこまで教えて、どこまで教えないか、
とかを考えてみれば、やっぱり、
あまりにもむつかしいような気もするなあ。

「教える」とか、「知る」とか、
「教わる」とか、「学ぶ」とか、
「わかる」とか、「できる」とか、
「伝える」とか、「伝わる」とか、
そういうのって、いったい何なのだろう?
みたいなことも、けっこう、よくわからない〜。

令和4年1月30日


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