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折り合い。

昨日のブログでは、「心」とはなにか?
みたいなことを書いたのですが、依然として、
「心」とは、なになのか、
「心」とは、どこにあるのか、
「心」は、あるのか、ないのか、
って、やっぱり、よくわからない。

たとえば、「心」というのは、
「気持ち」のことなのか、
「感情」のことなのか、それとも、
「心臓」のことなのか、
「脳」のことなのか、はたまた、
「精神」であったり、「魂」であったり、
というものなのか。

仮にね、
「身体の中にある」と定義した、としても、
身体の内部を探索すれば、そこに存在していて、
この手で触れるものなのか、
いや、実体はないものなのか。

身体のどこの器官が
「心」を司っているのか知らないけれども、
そして、「心」には、
形があるのかないのか、
温度があるのかないのか、
匂いがするのかしないのか、
音を発するのか発しないのか、
というのも、すべて知らないけど、
「心」というものが、
「ない」と言うよりかは
「ある」と言ったほうが、
しっくり来るような気がしている。

ぼくのイメージとしては、「心」とは、
身体の中の奥底、つまりは、
皮膚や肉や臓器よりももっと奥の場所で、
鉄格子的なものによって幽閉されているような、
そんな印象があって。
でも、「幽閉」とは言ってもね、
身体が動けば、その身体の奥底にある
鉄格子もいっしょに動くんだから、
まったくの不自由だとも言えないし。
そして、人間の身体自体も、
ある意味では「心」が動かしているともすれば、
「心」が人間の存在を司っている、としても、
「心」そのものは、
身体の外で動き回ることはできない。

そんなような、
幽閉されている「心」に対して、
ぼく自身ができることは、
身体とか、手とか、足とか、顔とか、ことばとか、
などなどを使うことによって、
考えるとか、想うとか、をしながら、
じぶんの「心」が孤立しないようにする。的な?!

「心」を、
あまりにも重要視し過ぎるのも、
よくないのやもしれないけれども、
逆に、ないがしろにするのも、
よくないような気がしている。

じぶん自身の「心」と、なんとか、
折り合いをつけてゆけたら。。。

令和4年1月25日


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