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木津川に、飛行機の幻を見に行く。
大阪市大正区の船町でちょっと気になることがあって、二週連続で出かけてみました。
最初に、ニュートラムの平林駅から北に向かって歩きます。この辺りは木津川から続く運河が張り巡らされ、丸太が浮かぶ貯木場が並んでいるところ。その間を遡行するように歩いていくと巨大な新木津大橋が迫ってきました。木津川の渡し船で対岸に渡ります。
今日の目的地は、この橋の大正区側入口。
直径100mの3重ループの下にありました
弁天から船に乗って大正、昭和へ。
港区と大正区を歩いて船旅&登山に挑む休日というプランを組んでみました。スタートは、メトロの弁天町駅。ここから尻無川に向かって南へ、南へと歩いていきます。「尻無川」って変な名前だなぁと調べてみると、その昔、河口にアシが生い茂っていてどこが川の尻(端)かわからなかった、それで尻が無いと名付けられたのだそうです。
しばらく行くと「甚兵衛渡船場」が見えてきます。港区と大正区をつなぐ約94mのかわいい航路
大阪港にある、もう一つの港に会いに行く。
地図を見るのが好きです。正しくは、地図を見て休日の過ごし方を考えるのが好きです。今週末は、どこへ行こうか。できれば大阪市の渡船を利用して。素敵な寄り道先はないかと地図を見ていたら「大正内港」という文字を発見。その隣りには「はしけ桟橋」というパワーワードも!
大正内港とは、大阪港に作られた人工の港。昭和15年くらいまで大阪市大正区の陸地のほとんどは海抜0m以下だったそうです。そんなところへ昭和9年
日本で2番目に長いと数えられた商店街を歩いた。
大阪市が運営する渡し船に乗った帰り、メトロ・花園町駅に向かって歩いていたら古くからある商店街に紛れ込みました。帰って調べてみると、そこはかつて日本で2番目に長い商店街と呼ばれた「鶴見橋商店街」でした。俄然興味が湧き、もう一度訪ねてみることに。
商店街の歴史は明治42(1909)年、大日本紡績(現・ユニチカ)の工場が生まれたことに始まりまります。工場の近くに流れる十三間堀川に1本の橋が掛けられ、鶴
ついに、大阪の8渡船をコンプリート。
「水の都」と呼ばれる大阪には、現在、8か所で渡し船が営業されています。すべての場所で頭上には橋が架かっているのですが、大きな船を通すために水面からの高さが50mとか、かなり背が高い。登るだけでも大変なのに、通学用の自転車を押して渡るなんて無理。「残してほしい」という利用者からの熱い要望を受け、橋が完成した後も朝6時から夜の9時まで毎日運航してるというわけです。
8か所の渡船を1日で回るのは、さほ
SLやまぐちで、貴婦人と2時間デート。
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、全国各地の観光列車が運行を中止している。津和野と新山口を結ぶ「SLやまぐち号」もその1つ。例年であれば、3月中旬〜11月下旬までの週末、1日1往復していたはずなのに。
発売1分で売り切れるという難関を奇跡的にクリアして、やまぐち号に乗れたのは10年以上前のことだから、いまの運行形態と異なっているところがあるかもしれません。ご了承くださいね。
津和野に貴婦人
上電 スタンド・バイ・ミー。
群馬県の名山・赤城山の裾野を東西に横断する。それが、上毛電鉄である。地元の人は、ジョーデンと呼ぶ。子どもの頃は前橋へ行くために、高校時代には桐生まで毎日乗った。僕にとっての「母山」である赤城山がいつでも臨め、桐生行きの列車はほとんどの行程で、田んぼや畑の間を走っていた。窓を開けると、堆肥や養鶏場の匂いが入り込み、「田舎の香水」と笑ったものだった。
上電の車庫がある大胡駅を桐生方面に向かって動き出
急行「あかぎ」襟巻き事件。
まだ学生だった頃のことだから、今から40年近くの前の話。
東京と千葉の県境に近い新小岩というところで一人暮らしをしていた僕は、毎月月末になると実家のある群馬まで、翌月の生活費(仕送り)をもらいに帰っていた。上野駅発の急行あかぎに乗って。
11月末の金曜夜のことだったと思う。その日は大学の友人と話しこみ、ホームに着いたのが発車寸前となってしまった。当然、空いているボックスなどはなく、誰かの対面に座
駅には、ホームドラマがある。
ローカル線にある駅が好きだ。
かつて特急などが停車した長いホームを持ちながら、その大きさを持て余しているような駅だったり、レールを柱に利用した跨線橋があったり、僕にローカル線の面白さを教えてくれたJR津山線には、亀そのものの形をした駅舎があったりする。
しかし、駅の魅力に引き付けられ下車してしまうと、とたんにローカル線の現実と向き合うことになる。それは、次の列車が来ない、である。2時間とかはザラ