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永禄6年(1563)8月4日は毛利元就の嫡男隆元が急死した日。三本の矢の逸話の長男。偉大な父、優秀な弟二人へ劣等感からか弟達が自分を見下しているなど愚痴の手紙も残る。逸話の元ネタ「三子教訓状」は息子達の関係を心配し書かれた。人と比べて苦しむことは武将も同じなんですね。

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弘治3年(1557)11月25日は毛利元就が3人の息子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に三子教訓状を送った日。陣中で元就が書いたこの教訓状から三本の矢の逸話が創作されたといわれる。元就の現状認識として毛利をよく思わないものは国内外多く兄弟仲が悪いと滅亡に繋がる危機感があった。

31日は旧暦にない。永禄8年(1565)8月は尼子義久の月山富田城を包囲中の吉川元春が「太平記」40巻を書写しおえた月。永禄6年閏12月から陣中にて書写しはじめたもので「吉川本太平記」として現在に伝わる。元春といえば毛利家の中で武勇で知られるが文化的素養の高さもうかがわせる。

永禄6年(1563)8月4日は毛利元就の嫡男隆元が傘下の国人に饗応された直後に急死した日。死因は病死とも毒殺ともいわれ隆元の嫡男幸鶴丸(輝元)が家督を継いだ。しかし若年のため元就が主導権を握り後見した。元就の死後は隆元の弟である吉川元春と小早川隆景が毛利両川として輝元を支えた。

慶長2年(1597)6月12日は毛利家を支えた小早川隆景が65歳で亡くなった日。元就の三男で三本の矢の逸話のうちの一本。長兄隆元亡き後はその子輝元を次兄吉川元春とともに支えた。即断即決ではなく熟慮する逸話が残る。その死に際して黒田官兵衛が「日本に賢人が絶えた」と惜しんだという。

31日は旧暦にない。永禄8年(1565)8月は尼子義久の月山富田城を包囲中の吉川元春が「太平記」40巻を書写しおえた月。「吉川本」として現在に伝わる。毛利家の中で武勇で知られるが教養も。大勢が決した戦況とはいえ陣中の余裕を感じます。せめていつも読書する程度の余裕は持ちたいもの。