笑い話にしかできないような、今の自分でっは太刀打ちできないことは確かにある。けど、いつまでも笑い話でごまかしたくはない 人はなぜ学ぶのか?なぜ成長するのか?大人になるのか?それはかつてできなかった大事なことを行えるようになるためだと思う まだ可能性は残っている。
興味がないから関わらない。興味のあるなしで選択ができるというのが当たり前になりすぎていないか? 興味がなくともカロリーを取らなくては体を維持できない。どんな立場の人も水と酸素がなくては生きていくことはできないのは変えられない現実の筈 人間の多様性は傲慢さと繋がっていないか?
探し求めている人は自らの小ささ、無知さを認めつつもこれでは終わらないという反骨心を持つ人だと思う 絶望したくなるような現実を直視しつつも絶望しきらず、こみ上げてくる焦りや使命感に流されもしない。欠点がない人などいない、しかし欠点をカバーしきる人はなれる可能性はあると思う
息子が昨日小学校からの帰り道で転んでヒザを擦りむいたんですね。約1センチのキズが出来ました。血もすぐ止まったし「平気平気」と言ったら怒られました。「なんで大人って色々知ってるのに、子供の痛みは分からないの?」って・・・。ごめんねと言いながら、何だか胸がチクチクしました。
子どもを大人に成長させていく過程では何が必要なのだろうか? そもそも、天然の要塞で暮らしていた日本人はかたい殻に囲われたサザエのように背骨を作り出す必要がなかった それが殻が壊れたから、背骨を急遽作る必要ができても今までなかったものをすぐには作れない。それが適応異常に現れている
僕にとって、大人になるとは、1円の違いに、気付ける事かもしれない。