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キガツイタコト- キロク -



私は余白がとっても苦手だ。
それはなんでだかずーっとわからなくて
埋めなきゃ埋めなきゃって作ってきた。

それでもわたしが惹かれるものは
在るだけで気配のする表現物。
余白のあるものってこと。

私は自分の構図力の問題だと思ってた。
技術。
この構図にするならここを引けばいいという
計算的なことが欠けているか余白ができないんだと思った。
空間も同じ。

でも多分感情的に描いていて、今までも
生まれてから計算で生きてきたことのない私からすれば
多分、そういう問題ではない。

心理的にごちゃっとした何かがあるから画面や空間も埋めに行くんだ。

だから描いてる時に耳を澄ましてみると
ある一定の方向性が見えたところで
“これだけではおかしいはず”
“これだけだとちゃっちく見えるかもしれない”
“付け足さなきゃ、”

これは明らかに恐怖だと思う。
私自身の価値観というより、他者の視線を
気にするっていう恐怖が混ぜ込んでしまってる。

思い返せば恐怖とかトラウマとかそういったことを
エネルギーに描いていたように思う。

そこを常に引き出しとして持っていて
作る、かく時に
誰にああ言われたこう言われたとか
嫌な記憶を自分で引き出して
自分の横には常に自分を罵倒する自分も現れる。
そうやって”クソが”とか思いながら描いたり作ったりする。

制作物をみる人からすれば制作はキラキラしたもののように
思えるかもしれないけれど実際は影があるほど光るだけ。
私はそういう価値観である。

だけど最近その価値観や方法で描くほど体に影響が出るようになってしまった。

だからできるだけそういったことをしないようにしていると
制作ができない。それであ、私は恐怖やマイナスなことを
エネルギーに描いていたんだって気づいた。

だけどマイナスなことをエンジンにすること以外での
制作の仕方を知らない。

私にとって制作は現実逃避に近いものでもある。
だから幸せな世界にいればいるほど描けなくなるし
作れない。

それが最近の私の悩みだった。

—続く—

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