見出し画像

【モノローグエッセイ】名前に関するあれこれ。パート①千と千尋と犬王の神隠し

☆名は体をあらはす。

※当エッセイには、一部ネタバレに関わる要素も含まれるので、ご注意ください。
※また、これはあくまで一個人の考察です。

7月上旬くらいの頃、「犬王」と舞台版の「千と千尋の神隠し」を配信で観た。(犬王→千と千尋の…の順で観劇。)

どちらも素晴らしかった。
いやあ本当に良かった。良きかな、良きかな。
2つの作品を観て面白かったのは、偶然にどちらも「名前」に関して重きを置いている描写があったこと。「名前」について、とても大切な意味を込めているような印象を受けた。


「名前」ってどんな意味、役割があるのだろうか。
と、1人でずーっと考えていて、考察していて面白かったので、記事にしてみた。

まず、それぞれの物語の大まかなあらすじと共に紹介していく。

・犬王

まず「犬王」 
映画公式サイトにあるあらすじはこちら。

室町の京の都、猿楽の一座に生まれた異形の子、犬王。周囲に疎まれ、その顔は瓢箪の面で隠された。
ある日犬王は、平家の呪いで盲目になった琵琶法師の少年・友魚(ともな)と出会う。名よりも先に、歌と舞を交わす二人。 友魚は琵琶の弦を弾き、犬王は足を踏み鳴らす。一瞬にして拡がる、二人だけの呼吸、二人だけの世界。

「ここから始まるんだ俺たちは!」

壮絶な運命すら楽しみ、力強い舞で自らの人生を切り拓く犬王。呪いの真相を求め、琵琶を掻き鳴らし異界と共振する友魚。乱世を生き抜くためのバディとなった二人は、お互いの才能を開花させ、唯一無二のエンターテイナーとして人々を熱狂させていく。頂点を極めた二人を待ち受けるものとは――?

歴史に隠された実在の能楽師=ポップスター・犬王と友魚から生まれた、時を超えた友情の物語。
映画公式サイトより抜粋

名前に関する描写を中心にだいたいの話の流れを一部雑に紹介。(めっちゃネタバレです。)

平家が滅亡してから60年後の壇ノ浦。
漁師の息子・友魚(ともな)は、京からやってきた男たちの依頼で、父親と共に壇ノ浦の海に沈んだ三種の神器を引き揚げる。しかし、その箱を開けた瞬間に平家の呪いによって父は絶命、友魚は両目の視力を失ってしまう。
父の亡霊に「無念をはらせ」と言われるがままに旅に出て、道中で出会った琵琶法師の谷一の弟子となり、友魚は琵琶法師となる。京にやってきた友魚は谷一に連れられ、彼の所属する琵琶法師団体「覚一」の座に迎えられる。そこでは皆「一」の字を名前にもらうことになっており、「友一(ともいち)」と名乗るよう命じられるが、父親の亡霊が現れ、名乗る名前を変えることを怒り始める。「名前を変えると見つけられなくなる」というのがその理由だった。

友魚改め、友一は、犬王と出会い音楽的に意気投合。犬王は
友一に「芸をひとつ手に入れると身体の部位が変わっていく」と話す。これは何かの呪いなのか、亡霊の知り合いがいたら聞いてほしいと言われ、友一は父のことを思い出し、父の亡霊を呼び出そうとするも最初はうまくいかない。そこで、「友魚」と名乗ると、今度は呼び出すことに成功。
父の亡霊は「故郷に残してきた母が死んだ、だがちゃんと成仏した」と話す。それを聞いた犬王が亡霊を感じようと感覚を研ぎ澄ますと、そこらじゅうに赤い小さな亡霊たちがあふれていることに気づく。それらは忘れ去られた平家ゆかりの亡霊たちだった。そこで二人は自分たちの手で、彼らの語るそれぞれの物語を演じ、その無念を晴らして成仏させることを思いつき、歌と舞を人々に披露していくことに。今までにないスタイルで披露される演目に人々は魅了され二人はたちまち人気が出て、演目を披露するごとに犬王の異形の身体も元の人間の姿に戻っていく。

人気絶頂の最中、友一は犬王に自分で決めた新しい名「友有(ともあり)」を名乗ると宣言し、犬王との二人の絆を表現したその名を冠し、「友有座」を立ち上げる。そして、二人で舞って踊る新しい「平家物語」は、その後も人気を博し、国中に広がっていく。

そこにちょっと待てい!と入ってきたのが時の権力者足利義満。義満は覚一のまとめた「平家物語」を正本とし、それ以外のものを禁じてしまう。しかし一度だけ、義満の御台・業子が目をかけている犬王の天覧能をおこなうように犬王の父が営む猿楽一座「比叡座」に命令が下る。

なんやかんやありながらも舞台は成功し、犬王の呪いも全て解け、元の人間の姿(しかも美男)に戻ることに成功。

しかし、後日、義満の命によって友有座は解散させられ、抵抗する弟子は耳を切られることに。
友有は覚一の座に駆け込み、そこを束ねている定一に泣きつく。定一は「友一」として戻ってくるよう説得するが、彼は拒否。ついにはやってきた役人に刃を向けられるが、兄弟子の谷一が彼をかばい殺されてしまう。それでも友有は考えを曲げず、そのまま連行される。

一方、犬王は、義満に呼び出され、今までの「平家物語」を捨てるよう命じられる。背いた場合は友有を処刑するとほのめかされた犬王は、自分の本心を堪えて従うしかなかった。

しかし、足利の世に背いた者として扱われた友有は、犬王と始めて舞い踊った橋のふもとで衆人環視の中、琵琶を弾きながら一本ずつ手を切り落とされ、最後には「壇ノ浦の友魚!」と名乗り、首を落とされ処刑されてしまう。

その後のラストもすごく良いんだけど、そこまでネタバレしちゃうのもアレなので、全容が気になる方はこちらのあらすじまとめサイトが詳しく載ってるのでおすすめです!↓


・千と千尋の神隠し

こちらは多くの人が知っているジブリ作品だと思う。
10歳の千尋が、両親と共に引越し先の家へと車で向かう途中、父の思いつきから森の中の不思議なトンネルから通じる無人の町へ迷い込む。そこには神道の八百万の神々が住んでおり、人間が足を踏み入れてはならない世界だった…といったファンタジー作品。
その中の象徴的なシーンのひとつには、湯婆婆が千尋の名前を奪い、「今日からお前は千だよ!」と、名前を奪って支配するという名前を扱ったシーンがある。
他にも、自分の本当の名前を思い出せずにいるハクや、
そのハクが千尋にかける「いつもは千でいて、本当の名はしっかり隠しておくんだよ」「私、千になりかけてた」という台詞や、千尋のおかげで本当の名前を思い出したハクの目の輝きや表情などが、犬王を観たあとの私は印象に残った。


・名前を「自分」と置き換えて考えたら

この2つの作品の「名前」に関する描写を見て、私は、名前は「本当の自分」「真のアイデンティティ」を表すアイコンなのではないかと考えた。

千と千尋の神隠しで説明するとするならば、
「千尋」「饒速水小白主」は本来の自分
「千」「ハク」は湯婆婆によって作りあげられた表面的、仮面的な自分

である。

犬王で説明すると、ちょっと派生した名前のカテゴリもあるが、
「友有」「犬王」は本来の、自身が望むべき姿の自分
「友一」は社会で生きるために必要な自分(表面的、仮面的な自分)
「友魚」は親が名付けた最初の自分(本来の自分の部類に入るが、自分で望む名前ではないので、サブ的な本来の自分)

かなと思う。
千と千尋の神隠しと織り交ぜて表すのなら、
友魚は、だんだんと千尋になっていき、犬王はだんだんと千になっている、みたいな感じ。

犬王は、異形の姿の時から最初からなりたい自分でい続けていたが、だんだんと元の人間の姿に戻っていくうちに、社会が、そして権力者が求める模範的で従順な人間となっていったようにも思える。しかし、そんな模範的で従順な人間でいたとしても、犬王の名前は能の舞台の歴史の闇に埋もれる結果となっている。つらすぎかよ。

友魚は、犬王との出会いから様々な影響を受けて、自分がこうありたいと思う自分の「友有」を見つける。しかし、それは世の中、そして権力者からしたら都合の悪い存在。自分が望む自分でいることを禁止され、抑圧されるということはどんなにつらいことだろう…。しかも、友有の場合は、死ぬ直前に名乗る名前は「友有」ではなく、「壇ノ浦の友魚」だった。つまり、友魚は、自分が1番望む姿(名前)にはなれないまま死に、その魂はさまようこととなった。ねぇ、つらすぎなの?

「犬王」のこのような描写を見てから、千と千尋の…ハクのセリフにある「いつもは千でいて、本当の名はしっかり隠しておくんだよ」という台詞を改めて聞くと、うなるものがあった。普段は仮の自分でいても、ちゃんと本当の自分は自分の中に守っておくんだよ、という本当の自分をいつの間にか忘れてしまったハクの思いが感じられる。

釜爺のセリフにもある、「ハクは湯婆婆の弟子になってから(本当の名前を失ってから)、目つきもキツくなって笑わなくなった」というのは、本当の自分を見失い、湯婆婆によって強制された仮の自分でしか生きることが出来ない状態になっているということではないかと考える。

そう考えると、「人間が忽然といなくなる現象」を意味するタイトルの「神隠し」も本当の自分が消えた、失った、というニュアンスもあるのかなぁとも思える。

どちらの作品も、「名前」を「本当の自分」「真のアイデンティティ」を表すための大切な方法として表現していたのではないか?


・「本当の自分」とは

「名は体をあらわす」ということわざがある。

これは、「人や物の名は、その実体や性質を示す。」という意味で、まさに、「犬王」や「千と千尋の神隠し」で語られている「名前」というものに精通するなと思う。
私達も色々な「名前」を日常で使い分けている。本名、芸名、ニックネーム、ハンドルネーム。その中には、蔑称、配慮と品性に欠けたカテゴライズ名もある。改めて考えると後者のほとんどは、自分自身ではなく、第三者が付けた名称であることがほとんどな気がする。つまり、仮面的な自分であり、「」である。
ミュージカルで例えるなら、レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンの囚人番号、「24601」は、ジャベールがつけた忌み名であり、第三者によって付けられた仮面的な自分である。(ちなみに、そう考えるとマドレーヌ市長は社会で生きていくための名前で、パパはコゼットを守り育てるための名前、ジャン・バルジャンはそれら全てひっくるめた本当の自分になるんじゃないかと思ったり。Who am I~)

自分とは何なのか、自分らしさとは何なのか、誰しもが生きていて思い悩んでいると思う。(私はしょっちゅう悩んでる。)思い悩み、色んな人、出来事に影響を受けて自分を見失ったり、こんな自分ではダメなのだと自己嫌悪になることもある。悩んではダメ、嫌ってはダメ、自分を偽ってはダメとは私は無責任に言うことは出来ないが、その中でも「本当の自分」をしっかりと守って生きていくことは大切なのだとこの2つの作品を観て考えるようになった。

果たして、今の自分は「本当の自分」を守ることが出来ているだろうか?


さて、次のエッセイでは、ミュージカルで「名前」にフォーカスがされていると私が思う作品について考えていきたいと思います🐱


パート②はこちら


この記事が参加している募集

名前の由来

舞台感想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?