見出し画像

治ると信じているけど治らなくても絶望しない

 左耳の聴力が著しく落ちた。
 特に低音が聞こえない。テレビで「上田と女が吠える夜」を観ていても女性ゲスト達の声は聞き取れるが司会の上田の発言が判然としない。両耳を塞ぎ右耳だけ離してみる。音が聞こえる。左耳で同じことをしてみる。手は離しているのに聞こえは手で塞いでいる時と変わらない。仕方なくテレビのボリュームを上げた。低音が聞こえてない左耳だけで聞くバラエティ番組は電波が悪いラジオ放送のようで、「大東亜戦争終結ノ詔書」の玉音放送を彷彿とさせた。
 寝たら治るかなと期待していたが翌日また一段と音が遠く、左耳が塞がっている感じがしたので耳鼻科を受診する。聞こえの検査をして薬をもらう。処方された3種類の薬はどれも見慣れた薬だった。アデホスコーワ、メチコバール、イソソルビド。やぁ、また会ったね、出来ればもう会いたくなかったな。特にイソソルビド、お前とは。イソソルビドは脳圧や眼圧を下げるメニエール病治療薬の一つで、チュールのような形状の内用液なのだがとにかくまずい。今まで飲んだ液体の中で一番まずい。薬局で薬を受け取るとき薬剤師の方が「何か心配なことなどありますか? イソソルビドのまずさ以外で」と事前に断りを入れるほどまずい。
「これ、飲んだことありますか?」
「あ、はい、あります」
「あ、じゃあ・・・・・・」
「はい、まずさは知っています」
「まずいですよね、僕らも薬の説明をしないといけないので試飲するんですがあまりのまずさに驚きました。どうしてもまずくて飲めない時は2倍ぐらいなら水で割ってもいいですし、ジュースと混ぜてもらっても大丈夫です。まずいですがよく効きますので頑張って飲んでみてください」
「はい、頑張ります」
「よく効きます」の一言に励まされる。薬剤師は薬の試飲もするのかと思った。ショッピングモール内の薬局は来客数と薬剤師の数が釣り合っておらず明らかに人手が足りていない様子だったのに笑顔で丁寧に薬の説明とヒアリングをしていて好感が持てた。年下か同い年くらいか、きっとこれがメロドラマだったら女性客が突然「あの、独身ですか」とか言い出すのだろう。男性客が女性店員に連絡先を教えたり聞いたりは身近に聞いたことがあるが女性客が男性店員にアプローチしたという話は聞いたことがない、実際そんなこと起こるのだろうかなどと考えつつ帰った。

 左耳の聞こえが悪くなってから2週間ほどが過ぎた。気圧の変化に伴って良くなったり悪くなったりを繰り返している。基本的に音はどこか遠くぼんやりとくぐもって聞こえる。5年前にメニエール病を発症して右耳の低音も聞こえが(発症前よりは)良くないので、左耳の聞こえも悪くなり世界と自分との間に防音膜が張られたような感じである。コンビニやスーパーとかで覇気がない店員さんだと聞き取れず聞き返さないとならなくなる程度の聞こえの悪さで生活している。調子が悪い日は右耳と拾えている音の違いがはっきりと自覚でき、右耳を塞ぐと階調が一つ、そのうち音符が2つしかない世界にいるようだった。2進数の世界。白と黒しかない世界。灰色の世界。調子が悪い時に聴くバッハの無伴奏チェロ組曲1番ト長調はどんなに上手い演奏でも下手に聞こえる。低音の響きがない弦楽器の音色は初心者のバイオリン演奏に似てぎこちなく機械的で不快ですらある。重厚な響きは削ぎ落とされ、ぎぎ、というノイズに近い高音だけが抽出されたそれはもう音楽ではなく記号の羅列に過ぎない。なるほど音楽というのは音を楽しむと書くのだったな、と妙に納得する。
 幅がなければ楽しめない。豊かさというのはバリエーションがあるということだ。
 同じことを味覚障害になった時も思った。喉の手術の後遺症(というか医療事故)で味覚障害になっていた期間、最初の頃は全く何の味も分からず、何を食べても食感しか無かった。歳月が過ぎるうちに神経が修復されていったらしく段々と(ほんのかすかではあったが)味覚が戻り始めてきた時、最初に戻ったのは塩味だった。しょっぱさが最初に戻ってきて、その次は苦味。辛み、酸味。そしてかなり時間を経てようやく甘みと旨みを感じられるようになった。甘みと旨みを以前程に感じられるようになるまで、4年の歳月を要した。塩味は比較的早い段階で戻ってきたので長期間私は塩味と酸味と辛味と苦味だけの世界で過ごしていたのだが、甘みと旨みを感じられないだけでここまで料理は味気無くなるものかと驚いた。焼き肉を食べてもラーメンを食べてもカレーを食べても全く美味しいと思えない。甘みや旨みが無いと塩味や酸味や苦味を美味だと感じることが出来ないと知った。それぞれが相互に作用し合って初めて人は味蕾が受ける刺激を美味しいと感じられる。何か一つの要素が欠落していると、かろうじて感じられるその他の味、例えば辛味や塩味は単に「刺激」でしかない。どんな料理を食べても塩を舐めているか七味を舐めている以上の感覚は得られない。どうやら味も人間存在と同じく相対的なもののようだ。
 これは聴覚においても同じだった。低音の響きが無い音楽、効果音、人の声、喧噪は深みがなくのっぺりとして無機質。低い音だけが姿を消したのではなく、全ての音が変貌していた。低音が無いと高音も美しくない。音に感じる心地良さが欠落している。例えばハ長調のラの音は聞こえるが、低音の響きを削ぎ落としたラの音は今まで聞いていたラではない。ラの一部分だけが聞こえている感覚だった。ラとして成立していない、それはrなのである。そしてそのrには個性が無い。音の持つ情報が著しく制限されているために、何によって表された音なのかが分からない。思うにどんな音にも音がそれとして存在する過程で必ず低音の響きが必要になっていて、その微量な高低バランスによって私たちはピアノの音だとかバイオリンの音だとか人の歌声だとか無線の音だとか音の違いを識別しているのではないか。今の私の状態は、低音の響きがない故に、全て同じように聞こえる。とても無機質で機械的なラだ。これではバッハが美しく聞こえようもない。
 聴覚における低音は味覚における旨みだ。それがないと、楽しめない。
 これは実際に経験してみないと分からないことだった。
 豊かさというのはグラデージョンの幅が広いということ、つまり多様であるということだ。低音の無い世界は貧しい。何か一つが失われるだけで世界は面白みを無くす。落ちこぼれがいるからエリートが際立つみたいなもので、不要なものなど何一つ無く、全ての感覚が私の世界を支えていた。
 きっと私が捨てたいと思っている私の不便で不都合なところ(例えば歯並びの悪さや側湾症、視力の悪さ、発達障害、持病)も私の美徳(あるとすれば。あってほしいが。)を成立させるためには必要なものなのだろう。(「人は悲しみが多いほど人には優しくできるのだから」と武田鉄矢も歌っていたように。)今回聞こえていた音が聞こえなくなり、代わりに常に冷蔵庫が唸っているような音が聞こえ続けている状態を経験し私は難聴症状の多様さを知った。トルストイ『アンナ・カレーニナ』の冒頭が思い出される。「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。健康は一つの状態だが、同じ病名でも病状は人それぞれ違う。人には人の生きづらさ。
 ジョージ・オーウェル『1984年』で全体主義国家は国民から言葉を奪い思考出来なくさせ反発の芽を潰していた。ディストピア社会では赤や黄色は存在しない。白すら必要ない。「黒」しか残っていない世界で色について人々が考えられることは黒か、そうでないかだけだ。言葉が使用禁止になり概念は失われ思考は単純化し難しいことを考えられなくなる。特に人権や自由のような形のない概念は語られなければ消えてしまう。それはとても貧しい世界だ。しかし人々は「貧しい」ということすら分からない。

 「あなたは元々耳が良かったから左耳の聞こえが悪くなった時に全然聞こえないという自覚になったんでしょう」と補聴器をつけた耳鼻科医師が言っていた。私は元々自分が聞こえる人間であったことの幸せを思った。
 今やかつて聴いていた音を楽しむことは出来ないが。クラシックも好きなバンドの楽曲も町の喧噪でさえかつての響きはもうないが。常時聞こえる耳鳴りにより完全な静けさすらも失われてしまったが。
 絶望はしない。
 治ると信じているけど治らなかったとしても絶望しない。
 失ったものはそもそも私の努力で手に入れたものじゃないから。最初から手にしていない人がいる中で私はたまたまそれを与えられていただけで、そして最終的には今手にしている全ては失うものだから。
 耳が聞こえることも、耳が聞こえる人々中心の世界で生きていることも、何一つ私の功績ではない。

 いつの間にか私の心の椅子にはベートーヴェンが座っている。32歳の彼だ。28歳で最高度難聴者になった彼は32歳で「ハイリンゲンシュタットの遺書」を書いた。私は時々彼に発話せずに話しかける。長年苦しめられていた父親の存在からようやく自由になり、音楽家として認められ始めこれからさらなる活躍を期待される中で聴力を失う絶望はいかほどのものだったか。彼は遺書の中で「自分の生命を絶つまでほんの少しのところであった。私を引き留めたのはただ“芸術”だけであった。」と書いている。音楽への強い情熱が彼をして苦悩を乗り越えさせ生きる意欲を与えた。その2年後、34歳の時に交響曲3番を発表したのを皮切りにその後10年間にわたって中期を代表する名曲を生み出し続けた。小説家のロマン・ロランはこの時期を「傑作の森」と評した。「運命」や「田園」が生まれたのもこの頃(1808年)だ。彼の苦悩無くして彼の功績は無かっただろう。
 私は彼に救われている。希望と勇気をもらっている。
 きっと難聴になっていなければ心の椅子にベートーヴェンが座ることも、音楽が与えてくれる幸福をここまで切実に思うことも無かった。自分の見ている景色や聞いている音が他人と異なっている可能性を日常的に感じることも無かっただろう。
 一番良かったことは今私の世界を支えている全てのものに、失う前に気づけたことだ。幸運にも与えられているもの、そしていつ無くなるとも知れないものに支えられて奇跡的に今の私は存在している。
 感じられること、歩けること、食べられること、歌えること、考えられること、文章を書けること。私には出来ることが沢山ある。今「出来る」を成立させてくれている全てのものをフル活用して最大限に世界を味わって生きていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?