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こどもを平等に育てるのは無理。というかそんなことしないで。

わたしには子どもがいる。
2人だけど、たったふたりでも個性が違って色々思わされることがある。

親としては同じようにしてあげたいと願うことがあると思う。
平等。
同性だと特に差別はしたくないと思うのではないかなと想像する(勿論儒教的な考えなどで逆に差をつける人もいるかもしれないけれど)。

わたしは父が武家の家訓などを重んじていたような人だから、当然上下関係を持ち出す人でそれがすごく嫌だった。
子どもの頃の私は年寄だろうと親だろうと所詮ただの人間だろうという考えだったから全く不敬な人間で扱い辛かったと思う。

わたしは長女だから優遇されたはずだけれど、寧ろ見せしめにされることも多く、絶対子どもにはこんな扱いはしないと思った。

ちなみに父はその一方で三姉妹平等な扱いを公言していた。
その結果の行動は以下のとおり。

・喜びのあまり長女だけついたくさん撮ってしまった写真を丸ごと隠蔽
・学校を同じように通わせようとする一方成績に差があるので、成績において褒められることの少ないこどもに合わせてよくできた子も褒めない

こういう不自然な平等を貫いている。
その結果わたしが受け取ったのは不公平という感覚なのだから皮肉なものだ。

この話で気づいている人はいると思うけれど、平等は不可能だ。
だって、たったふたり、同じ両親から生まれても月と太陽ぐらい違うのだから。
できるとすれば公平さ、だろうか。

手のかかる子と手のかからない子という呼ばれ方がある。
何もしなくても泣かなくて、よく眠ってくれる子。
一日中抱いていても、何が不満なのかすぐ泣く子。

神経質だったり、過敏だったりということもあるけれど、少し育ってからも独りで遊んでくれる子となにかと構われたがって独りで置いておけない子がいる。

平等にすると言ってこの両者に同じものを同じだけ与えることはできない。
それぞれのニーズを見極めて適切に両者に与えられるのが公平、だろうか。

子育てはふたり目だと半分ぐらいはひとり目とは違うケースが出てくる。同じようにやれば済むこととそうじゃすまないことがある。
性差があればなおさらだと思う。

前述の構っても構っても足りない子は一定数いるのだろうか。友人もそんなことを言っていた。
「愛情が足りていないのかな?」って聞いてしまう。
でも2人目の場合は特にだけれど「もう、いつも抱っこしているし、これ以上愛情のあげようがないぐらいなんだよ」って答えが返ってくる。

わたしも、自分が体験しているからその溜息すごーくわかる。

でも、少なくとも自分のこどもは接しているからわかる。もっと愛情が欲しいんだなって。望む形の愛じゃないんだなって。


自分のこどもに関しては接しているから、もともと持っている愛情の質と器みたいなものがそれぞれ違っているのを感じる(わたしがみえる範囲の話だけれど)。

上の子の愛は、めちゃめちゃ優しいけれど凪いだ海のようで、ただ静かに果てなく拡がっている。

下の子は見渡すような広さはないけれど、深く深く、マリアナ海溝はこんなだろうか?というような、光さえも届かないような底の知れない深さを感じる、そんな愛を持っている。そして凄く繊細な波長もある。

夫は下の子に似てる・・・じゃなくて下の子は夫に似たと思う。
ただ夫より純粋無垢なエネルギーだから凄くはっきり見える。まっすぐ伝わってくる。

上の子は何事においても淡白だ。欲がない。
だから下の子と比べちゃだめだとわたしは思う。

要求しないからといって要求されるまで与えないのは違うと思う。
でも要求される度ちゃんと応えているから足りていると考えるのも違うのかもしれない、そう思って当時下の娘への態度を変えてみた。

娘が要求するのに答えるだけで手いっぱいだったけれど、要求されていないときにこちらからスキンシップをとるようにした。
愛情に敏感な子だから、いるときはなるべく「ながら」ではなく全力で向き合った。

何度も繰り返して「𠮟っているのは行為であって、娘自身ではないこと」「叱ることは嫌いなことじゃない」ということを伝えた。

そうしたことを続けるうちに娘は変わってきたと思う。


なんでこんなことを書いたか。

保育園だったか小学校入学から間もない頃だったか、幾つのことか覚えていないけれど、娘が「自分のことが嫌い」で一度だけ「死にたい」と言ったからだ。

自分のこどもが、まだこんなに幼いのにこの世から消えたがってるなんて衝撃でない親がいるだろうかと思う。
わたしが子どもの頃辛かったのは家族の摩擦が激しかったからだ。
だからそんな環境にない自分のこどもがまさかそんなことを言うなんてショックだった。

当時はわたしもまだまだ精神的に安定していなかった。だから今思うと当然だったと思う。
自分自身を好きじゃない親、自分自身を責めている親、それは誰かを否定し責めていることと同義だから。「消えたい」エネルギーとか、繊細で敏感な子どもには伝わっていたのかもしれない、と思う。(思えば娘たちは幼い頃はテレパシックでした)

そんな経緯でわたしは全力でこどもへの愛情表現だけ真剣にやってきた。

成り行きと直感で結婚して、成り行きで作ることになった子どもだけれど「幸せなこども」かはわからなくても「不幸な子ども」にはしたくないというような思いがあった。
(今振り返ると単に自分の「正しさ」のためなんだろうけれど、ね)


こどもが保育園の時にチワワをお迎えした。
この子は下の娘がお留守番をできるようにしてくれた。最初に出会った人間以外の友だちで家族だった。

デグーも家族に加わって、今の子は夫と下の娘がお世話をしている。

セキセイインコは一羽だけだったけれど今年新たに2羽お迎えして、2羽ともわたしが仕事をやりくりして一人餌になるように育てた。
下の娘はそれをよく手伝ってくれて、自分で挿し餌をしてくれたこともあれば放鳥を手伝ってくれたこともあった。

このインコたちとの触れ合いが劇的に娘の状態を良くしたように感じる。
娘はちょっとごく軽い自閉スペクトラムを疑うところがあったのだけれど、この夏休み日課の中に鳥たちと触れ合ったりお世話する時間ができたことで(物凄いタイムスケジュールで暮らしている)笑顔が増えてよく話すようになったのだ。

親から見て「あれ?こんな笑う子だっけ?」というぐらい変わった。

わたしは以前の記事で自分が自営業になって触れ合う時間が増えたことが良かったのかと分析したけれど、単純に動物と触れ合うことがいいのだと最近のこどもの様子を見て直感している。

気になったのでちょっと調べました。
実は以前更年期にオキシトシンが効果があるというニュースを目にしたことがあったので、自閉スペクトラム×オキシトシンで調べたら研究結果がありました。
オキシトシンは女性が母乳を上げるときにでるホルモンとして知っていましたが、母親でなくても動物などを可愛がると出るとかで、それが不安の低減や他者との交流などの社会性行動の調節に効果があるとのことです。

まぁ、うちの場合診断がでるかわからない程、あっても軽度だと思うので参考になるかわかりませんが。

話が逸れましたが、こどもに平等は無意味。という個人的見解です。

こどもそれぞれと向き合って、それぞれの個性を見極めること。
その結果、それぞれにかける金額や時間、手間などで差異が生じることもあるかもしれない。

だけどそれに対して言い訳しないで済むように、子どもにも自分自身にも後悔させないように生きたいなって。
そんな風に思いながら受験生と過ごす秋を迎えているのでした・・・この土壇場になって大学受験を辞めた娘と・・・こちらも笑顔が増えてやる気を取り戻したのでした。

なにが良くてなにが悪いかなんて、悩んだってしょうがないよー (当人の)主観的な認識の問題だからねー 事実がどうなのかは関係ない話だから!(今日の締め)

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今日はダラダラの駄文ですみません。いつもかもです。
お写真はぐるぐるさんからお借りしました。
平等院で撮られた写真だそうで。お団子とお茶が平等に並べられている様子が可愛らしくて使わせていただきました・・・ダジャレ的な使い方になってしまってすみません。
ありがとうございました。

ありがとうございます╰(*´︶`*)╯♡ お預かりしたエネルギーが人と地球のために廻っていくよう活動します!