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【インタビュー】 作曲する女たち(20世紀生まれ) ⓷タニア・レオン:世界を見たくてキューバを離れた

Tania León:1943年5月14日〜
キューバのハバナに生まれる。作曲家、指揮者、教育者、芸術団体のアドバイザーとして活躍。ダンス・シアター・オブ・ハーレムの創設メンバーであり、初代音楽監督でもある。キューバではカルロス・アルフレッド・ペイレラーデ音楽院、アレハンドロ・ガルシア・カトゥーラ音楽院で学んだ。1967年春に難民としてキューバを離れ、マイアミを経てニューヨークに住むようになる。ニューヨーク大学でウルスラ・マムロックの元で作曲を学び、学士号、修士号を取得。長年の音楽活動の中、数多くの主要な受賞歴があり、最近の大きな受賞作品としては、女性参政権を批准した「憲法修正第19条」の100周年を記念したオーケストラ委嘱作品『Stride』がある。この作品で2021年のピューリッツァー音楽賞を受賞した。

原典:Bruce Duffie Interviewsブルース・ダフィーについて
インタビュー日時:1991年8月、シカゴにて(当時レオンは48歳)
だいこくかずえ訳・編集
訳注:1) 革命後の移民と家族再会プログラム
Photo by Gail Hadani (from her official website



自分の作品を指揮するのは簡単ではない


ブルース・ダフィー(以下BD):あなたは多くの作曲家の作品を指揮しています。あなたは自分が作曲家の系譜の中にいると感じていますか?

タニア・レオン:たとえば私がある曲を指揮するとします。作品の中に入って(指揮者として、あるいは作曲家としてというのではなく)、自分との関係性を見つけようとします。すると自分が変身するのを感じます。その作曲家の媒体になるのです。どうしてかわかりませんけど、その作品の中に作曲家の有り様を見つける様々なやり方がいくつもあるんです。スコアの中で何が起きているか、それを実際に感じ理解するのは素晴らしい体験です。それは個人的なものの見方や創造性と関係があります。だから他の人が見つけないことを私が見つけたり、その反対もあるわけです。

BD:あなたは作曲家であるということで、指揮専門の人とは違う指揮をするのでしょうか。

レオン:(ため息をつく)そうは思いません。作曲家でもあることから、曲の見方において多様な側面を加えることができるとは感じています。つまり指揮者としてだけやっているわけではないので、1秒1秒、その曲を精密に探索するのです。

BD:自分の作品を自ら指揮をすることはありますか?

レオン:あります。

BD:それは難しいことなのか、それともやりやすいのか。

レオン:とても難しいです。力が試されます。多くの場合、自分の書いたものを聴いていないわけで、非常に難しいことです。書いたものに深く関わり、まるごと自分自身である作品を指揮しようとすると、自分から離れてしまうことがあるんです。自分の作品を指揮することをあまり楽しめないのは、それを聴く機会がないから。万全なものにするために、どうしても演奏家や楽譜にある音符と関わりすぎてしまいます。

ダンスのための曲を書くとき


BD:あなたはピアニストから出発したんでしょうか。

レオン:ピアニストとして、そうです。イタリアで指揮をしたことはありましたが。アメリカに戻ってきて、すっかりそのことは忘れていました。でもカーネギーホールに行き、リンカーンセンターに行き、と実際に指揮者を見るようになり、それが気に入ったんです。(笑) 当時ラツィオ・ハラスに指揮を学んでいました。彼は私の唯一の教師でした。以来、指揮者として活動を始めました。

BD:今はダンス・シアター・オブ・ハーレムに?

レオン:音楽監督ではなくなりましたが、いまも彼らとは関係があります。客演することもあるし、私のレパートリーを彼らが上演したりします。私が彼らのために書いた曲は、今でも彼らのレパートリーになっています。彼らとは素晴らしい関係で、私がアメリカに来て最初の家族となった人たちです。彼らとともに成長させてもらったし、完全な実体のある音楽家になりました。

BD:ダンス作品となることがわかっていて作品を書く場合、そのことを念頭に書くのか、それとも作品を仕上げて、その上に振り付けを乗せていくのか。

レオン:その両方をつかって作品を作ったこともあります。振付家にもよります。振付家の方で何か書くよう言ってきて、それを渡すというケースもあります。

BD:指示はそれだけなんですか?

レオン:そうです。作品を書いて、そこから彼らはインスピレーションを受けるという。依頼してくる振付家はすでに私の作品をたくさん聴き込んでいて、彼らが作りたいものに、私の音楽が合うと見ています。その音を聴いて作品を作りたいと思うわけです。けれど振付家の方がこんな動きがあると私に見せて、それに私が触発され、あらゆる技術を使って音楽をつくることもあります。家に戻ってから、その動きを解明し、創作に生かします。

BD:どちらの方法も取れるなら、自由が効きますね。

レオン:そうですね。コラボレーションとはそういうものです。言葉でも演劇や振付でも、他のジャンルの仲間たちと仕事するときは、どのように進むか予測ができません。これもまた、創作を燃え立たせる要素になります。


世界をもっと見たくてキューバを離れた


BD:あなたは1943年にキューバで生まれました。 いつキューバを離れたのですか?

レオン:1967年5月29日です。音楽院を卒業する直前にキューバを離れました。

BD:なぜ離れたのですか?

レオン:そうしたかったら。(笑)世界は魅力に溢れていて、私は世界をもっとよく見たかった、そういう人間なんです。人間ってすごいと思う。いろいろな人生を歩んできた様々な人と出会えることにとても幸せを感じます。私は違う言語、違う文化や社会の中で、生きることができました。世界が多様であることが好きなんです。いろいろな意見を聞いたり、いろいろなやり方を見るのが好きですし、様々な宗教であるとか文化だとか、食べものとか……何であれね!

BD:キューバでは十分得られなかった?

レオン:キューバで暮らしていた頃は、いつも外の世界に興味がありました。フランス、イタリア、スペイン、ロシア、ポーランド、中国、エジプト、ギリシア、ともう世界中がね。私にとってすべてが驚くべきもので、ヨーロッパや東洋だけでなく、南アメリカもです。ブラジルは私のイマジネーションを掻き立てる場所の一つで、ブラジルについて話していれば、アルゼンチンやメキシコ、ペルー、ボリビア、とあちこち浮かんでくる。アラスカのエスキモー(イヌイット)の人たちだってそうです。

BD:では興味のない場所というのはあるのでしょうか?

レオン:ないですね。わたしは地球全体を不思議と驚きの場所と感じています。素晴らしいことだし、とてつもないことです。

キューバで受けた音楽教育


BD:あなたはアメリカで多くのことを体験しましたが、キューバでは良い音楽教育を受けたのでしょうか?

レオン:アメリカに来るまで、自分がキューバでどれだけ良い教育を受けたか知りませんでした。ピアノの演奏を基本に、言語能力(英語)、初見やソルフェージュ(読譜能力)によって奨学金がすぐに得られました。ソルフェージュについては、素晴らしいことが起きました。通常あまり教えられることのない訓練として、私の役に立っていたみたいです。アメリカの音楽家たちが、私のソルフェージュのスピードや何でもその場でソルフェージュすることに驚いていた、というのは笑い話の一つです。そんな強力な訓練をキューバで受けていたとは驚きでしたね。

BD:いいことを聞きました、キューバがどんな風か、ここアメリカではあまり知られていないですから。キューバは島国で離れていますから、アメリカではそこで何が起きているかなかなか気づきません。音楽教育のことなど、良い話を聞くのはありがたいです。

レオン:一つ言えるのは、私たちはみんな切り離されて暮らしていること。キューバでも、アメリカのことを知ることは少ないです。多くのことは噂話みたいなもので、そこから本当のことを知ることはできません。ここではあちこちに行って、人と会話し、交流し、考えや技術を交換しています。

BD:キューバにいる人たちと連絡をとって、そこから彼らの考えを引き出したり、外の世界にキューバで何が起きているか知らせようとしているのでしょうか。

レオン:私の家族はキューバに住んでいるので、そこに行きます。 1979年以来、8回ほど行っています。国に戻れない時期がありましたが、1979年に家族再会プログラム*が実施されました。その後、私は8回キューバに行っていて、3週間前にも行って母と会いました。家に帰り、許されている1週間をそこで過ごしました。家では母の台所で家族ごっこをするんです。いま言えるのはそれだけです。それは私たち(キューバを離れた者も、国内にいる者も)相互連携・協力ができないからです。このような状況があるのは残念なことですが、人間は悪い面をなくして、もっといいことを起こすようこういう所を通過するのだと思います。

政治は停滞したもの、私は進化している


BD:キューバの事情と関連して、音楽はそれ自体が政治的なものですか?

レオン:状況によります。人生において政治的であることは、すべての面で不利益をもたらします。人それぞれの選択になりますが、私は非政治的な人間だと主張するようにしてきました。そのようなものは何であれ、関わりたくないのです。これまでに私が経験してきたものは(ある意味で生き方を変えさせられたという事実から)、方向転換したり変えていかなければならない。カメレオンのように変身すること。生き延びるためではなくて、私たちの内には進化のプロセスがあることを理解するためです。そんな風に進化するとは思っていなかった人生の分野で、私は進化してきました。私が何にでも頭を突っ込む人間だという意味ではなく、この何年間の間に、私の心がある種のオープンさにたどりついたことへの驚きなんです。私が政治的な立ち場をとることは不可能で、それは私は常に進化しているからです。私にとって政治は少し停滞したもので、進化しようとする私を窒息させてしまいます。

BD:あなたを窒息させる?

レオン:そうです。どんな立ち場にも自分を置くことはできません。それは私が心理的にある場所に留まろうとすればいつも、他所から別の情報が入ってきて、立ち位置が少し変わるからです。政治的なことで言うと、一つ場所に留まることは私にとって難しいのです。

BD:あなたの音楽は常に成長しているんでしょう?

レオン:はい。

BD:今の自分の音楽には満足していますか?

レオン:私の音楽も大きく進化しました。1970年代は、質的に高いとみなされるものを書いていましたが、自分で気づいていない足りない部分がありました。1980年代まで、それは私の音楽にありませんでした。1980年代になって、私は自分を検証しなければならなくなった。ある意味で、その検証とは私の音に自分の私的なルーツを含めることでした。私の見つけた私的なルーツとは、私の出身地、文化、言語と関係がありました。これらのことは私の一部ですが、私の音の中にはありませんでした。それをひとたび音に含めると、自分がより正直になったと感じました。

BD:自分自身について発見したことで、音楽にそれを含めようと。

レオン:あー、そうです、その通りです。自分が何者だったのか、どこから来たのか、私の生い立ちや音的な環境に誇りをもちました。それが私の人生の基盤に浸透しはじめました。

BD:これをみんなと共有したかったんでしょう?

レオン:そうです、まさにその通りです。どれくらい正直かは、私にとって重要でした。他の人間にとって正直さが必ずしも重要でなかったとしても、私にとっては、音楽の中でそれを表明することは非常に重要になりました。

私の音を聴いてくれる人との対話を望んでいる


BD:単刀直入に質問させてください。 音楽の目的は何ですか?

レオン:これはまた大変な!(両者笑)わかりませんね。人間がずっとやってきたことは、なんであれレッテルを貼られてきました。哲学的な本をちょうど読んでいたのですが、そこでは精神性というものを扱っていて、前提には意味がないということ。前提というのはグラスのことをグラスと呼ぶことで、それは私たちがそう名付けたから。他の名前で呼ばれる可能性もあったし、一度ある名前をつけたら、ずっとその名前で呼ばれるわけです。音楽はそう名づける意味があった、素晴らしいことです。音楽は楽しめる、あるいは楽しめない音の並びから出来ていて、それが音自身の主張なんです。それを私たちは音楽と呼んでます。でも他の呼び方をされていたかもしれない。

BD:私たちが音を書き、それを聴き、とやっている方法は、音にとっての目的なんでしょうか。

レオン:多分そうでしょう。私たちがやっていることには、何でも目的があると思います。音楽に関わる人、文学に関わる人、あるいは美術に関わる人がいます。ノンフィクションを書く人もいれば、小説を書く人もいます。何であれそこにはメッセージがあるのだから、目的もあるはずです。結局のところ、人間というのは広範囲にわたって考えていく生き物です。そしてその考えるプロセスが結果を生みます。その表明は、作品を通してのものかもしれません。表すものは服でも靴でも何でもいいんです。それが心の内の表現になります。内部にあるものが、何か他のものを通して外部化されるわけです。私はこのように人生を解釈しています。

BD:あなたの書く音楽は万人向けだと感じますか?

レオン:あらゆる人のものであってほしい、そう思います。自分が仰々しい人間だとは思わないし、私の音を聴いてくれる人との対話がほしいです。そしてその音が聴いている人に届くなら、とても幸せです。人々と私を分つような音を、あるいは遥か遠くに自分を置こうと思ってはいません。自分の音から孤立するのは嫌です。私のものであり、私がよく知るものです。そんな風に音と生きていますが、他の人たちとそれを分かち合いたいです。人生において共有する生き方であり、音楽においてもそうでありたいです。

どこででもスケッチをする、地下鉄でもスーパーでも


BD:ご自身の音楽の話に戻りますが、作曲はすべて依頼されたものなのか、それとも自分の中から吐き出さずにはいられないものなのか。

レオン:自分が書きたいから書く作品もあります。委嘱があろうとなかろうと、いつも私の中にはいろいろなアイディアがあります。1980年代の初めに、父が亡くなったときのことを思い出します。チェロのための曲を四つ、父のために書きました。それは私の悲しみと憂いの気持ちを紙に記す方法でした。自分の考えでは、父に対する気持ちが私に曲を書かせたのです。誰かがそれに対価を払ってくれるわけではないし、この曲がどういう曲か、背後にどんな感情があったかを人に話さないこともあります。音それ自身がその作品についてのすべてを語ります。この曲では特に2楽章で、聴いた人は何て悲しみに溢れた曲かと言ってきます。大切な人を失った気持ちが、そうさせているのだと思います。

BD:一度に1つの作品に取り組むのですか、それとも一度に複数の作品を書くのか。

レオン:その時によります。始終スケッチをしています、それが好きなんです。五線譜のメモ帳とペンをもって歩きまわります。地下鉄の中で何か思いつけば、ささっと書きつけます。食料品店にいてもね。(両者笑) たくさんのスケッチを貯めていて、そこから引き出して曲を書きます。

BD:それはちょっとした思いつきなのか、それとも後であの曲に使えるとわかっているのか。

レオン:使えるか使えないか、それはわかりません。それはアイディアだから。時に一つのアイディアに長いこと関わっていることもあります。いくつかのスケッチに共通点があると、自分が何かを探しているのかなと。引き出しを開けてたくさんのものが中にあるとき、自分の本当に欲しいものを一つ、そこから見つける、という。

私の音楽好きに気づいたのは祖母でした


BD:作曲は楽しいですか?

レオン:何もかもが楽しいです。まず自分が作曲家と呼ばれるようになるとは、まったく思ってなかった。ピアノを学んでいたけれど、自分がプロの音楽家になるなどとも考えていなかった。私は貧しい地域に、島に、そして貧しい家族のもと生まれました。家族で初めて音楽家になったんです。祖母は私がクラシック音楽を好きだと気づいた人。それは私がラジオをよく聴いていて、それがクラシック音楽の局だったから。家族の誰もそんなことしていなかったから珍しかったんです。「あの子、どうしちゃったんだろうね?」 そんな風でした。(爆笑)

BD:あなたの勇気ある決断は喜ばしいことです。

レオン:私は4歳だったから、一時的なことだったかもしれない、でも何度かそれがあって、祖母はその音のせいで私に何か起きてるとわかった。私の家族が音楽院に連れていって、先生にレッスンをしてくれるよう説得しました。その先生は「小さすぎます、4歳でしょう。まだ読み書きもできない。幼稚園にさえ行ってないのに」 そんな風にして始まりました。だから自分が作曲をしたり指揮をしたり、世界中の音楽家たちに囲まれているのを見て、もう驚いているんです。子どもの頃のこと、生い立ち、何もわかっていなかった音楽院での日々を考えるとね。何もかもが不思議なことだらけ。


訳注
1) 革命後の移民と家族再会プログラム:1959年1月の革命後、キューバでは米国への大規模な移民が起きた。革命後の30年間で、全人口の10%を占める100万人以上のキューバ人(あらゆる社会階層)が米国に移住しており、これは同時期のカリブ海地域全体から米国への移住の人数に匹敵する。(Wikipedia English
1979年1月、キューバ政府は海外在住の親族の訪問を許可した。1年間で1万人以上がキューバに渡航したと言われる。

Original text:
A Conversation with Bruce Duffie, "Composer / Conductor Tania León"


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【小評伝】 作曲する女たち(19世紀生まれ)
テキサスのカウガール:Radie Britain
歌が唯一の楽器だった:Mabel Daniels
初めての学校は子育ての後:Mary Howe
1000人の大合唱団を率いて:Gena branscombe
ブーランジェ姉妹と交換教授:Marion Bauer

【インタビュー】 作曲する女たち(20世紀生まれ)
オーガスタ・リード・トーマス(作曲家かどうか、決めるのは自分)
ジェニファー・ヒグドン(ロックを聴いて育った)
⓷タニア・レオン(世界を見たくてキューバを離れた)
ヴィヴィアン・ファイン(よくできた曲はあまり面白くない)
エレン・ターフィ・ツウィリッヒ(音楽には浅いレベル、深いレベル両方必要)


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