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【小評伝】 作曲する女たち(19世紀生まれ)  ⓹ブーランジェ姉妹と交換教授:Marion Bauer

マリオン・バウアー:1882年8月15日~1955年8月9日、ワラワラ(ワシントン州)生まれ
主な作品:『ニューハンプシャーの森から』(1922)、『交響的組曲』(1940)、『中国』(1943)、『アメリカの青春』(1943)、『交響曲第1番』(1951)
原典:"Modern Music-Makers: Contemporary American Composers"(1952)
by Madeleine Gossより訳・編集
記事末の訳注: 1) マクダウェル・コロニー

このプロジェクトについて

音楽を男性的、女性的と分けて見る批評家がまだいたこの時代、マリオン・バウアーは「女性ながら男性的な大きな枠組みの知性ある作品」を書いたと見られていたようです。本人はいたって天然で、作曲家として望みは大きいけれど野心はない、という無心さで音楽に臨んでいました。フランスとの関係が深く、留学時代にはブーランジェ姉妹*他、多くの貴重な友人に恵まれその後の活動に生かしています。(訳者)

人生で重要なことを成すためには高い目標をもち、たゆまぬ努力を続けること、という一般論は、マリオン・バウアーのキャリアには当てはまらなかった。「身近にあるやるべきことに専念する」、それがバウアーのやってきたことであり、結果にはこだわらなかった。「希望は大きいが、野心は少なかった」と、彼女は言う。常に疲れ知らずの努力家だった。素晴らしい結果には付きものの重圧や苦悶はなかった。

ある日、一人の若い女性が、社会学の論文を書くための素材集めのために、インタビューしたいとバウアーのもとを訪れた。

「音楽家になりたいということを両親に説得しなければならないときがありましたか?」 そう女性は尋ねた。

バウアーは笑顔でこう答えた。「いいえ、なかったですね。ごく最初の頃から、両親はわたしのキャリアを伸ばすためにできるだけのことをしてくれました」

インタビュアーの女性は質問リストに目をやった。「音楽を始めることに難しさはありましたか? 職業として道を進む際、苦労はありましたか?」

「いいえ、私はただただ自然にやってきただけです。そこには姉の支援がありました。来るにまかせてやっただけです」

インタビュアーは困惑の表情を浮かべた。バウアーの返事は、女性がキャリアを積む難しさという自分の考えとまったく合わなかった。「でも女性だということで、偏見をもたれたことはあるでしょう?」

「いいえ、そういうことが障害になったことはないです」 バウアーはそう言って笑顔を見せた。

途方に暮れて、その若いインタビュアーは最後の質問を放った。「ご自分が設定した目標に届いたことはありますか?」

「実際のところ、自分が夢見ていたことを遥かに超えるところまで到達しました。特別な目標を立てたことはないし、重要なことを計画したということもないんですけどね」 バウアーの答えはこうだった。

マリオン・バウアーにとって、音楽は文字どおり、ゆりかごの中で始まった。姉のエミリー・フランシスはピアノの練習をするとき、バスケットに入れた妹をピアノの上に置いていた。それで赤ん坊の頃から、音楽はバウアーのいつも一緒にいる友だちだった。言葉を話せるようになる前から、モーツァルトやベートーヴェンなど巨匠の音楽言語を知っていた。

バウアーの父親は訓練を受けたことはないものの、生まれながらの音楽家で、素晴らしいテノールの歌い手だった。オペラのアリアや開拓時代のバラード、フランスの歌など尽きることのないレパートリーをもち、家族を楽しませた。父親はフランスで生まれ、若いときにアメリカにやって来た。半分は冒険心で、半分は西海岸に行ってみたかったという理由で、軍楽隊に入り、インディアン戦争に従事した。最終的に除隊すると、ワシントン州ワラワラに向かい(当時は開拓地の小さな町だった)、そこで雑貨店を開き、同じくフランス生まれのジュリー・ヘイマンと結婚した。7人の子どもが生まれた。エミリー・フランシスが一番上で、マリオンが末っ子だった。

母親のジュリーは近くのウィットマン大学でフランス語を教えていた(50年後、この大学は、音楽における実績を評価して、その末娘に名誉学位を与えている)。母親が家を離れている間は、エミリー・フランシスが妹たちの世話をした。エミリーは父親の音楽的才能を受け継いでおり、優れたピアニストだった。小さな妹マリオンがピアノに座れるようになるとすぐ、レッスンを始めた。

父親の死後、家族はワラワラを離れ、オレゴン州ポートランドに移った。エミリー・フランシスはそこからニューヨークへと移り住み、そこで音楽評論家として知られるようになった。6年間イブニング・メイルの批評家を務め、またミュージカル・リーダー・マガジンの編集者でもあった。妹のマリオンが西部で高校を終えると、エミリーはニューヨークに来て音楽の勉強を続けるよう計らった。マリオン・バウアーの最初の教師は、ヘンリー・ホルデン・フスだった。

1905年の冬、フランスのピアニスト、ラウール・プーニョがコンサートのため、妻と娘を伴ってアメリカを訪れた。プーニョ一家は英語がほとんどできなかった。バウアー姉妹とめぐり逢ったことで、フランス語が話せるマリオンが英語を教えることをかってでた。

プーニョ一家がフランスに戻ると、今度はマリオンをフランスに招待した。「マリオンにピアノのレッスンをしてあげられるし、パリの音楽界も紹介したい」 そう姉のエミリーに話した。

熱意と才能に溢れる若い女性にとって願ってもない機会だった。翌年の春、マリオン・バウアーはフランスに発ち、パリ近郊のガルジャンヴィルで夏を過ごした。プーニョはそこの村長で、その地域の音楽家たちが彼の家にこぞって集まった。二人の飛び抜けて美しく、才能ある若い姉妹、ナディアリリ・ブーランジェがいて、この集まりにしばしば参加していた。姉妹はどちらも卓越した音楽家だった。どちらが優れているかを言うことは難しかった。リリは当時、まだ幼く、一方姉のナディアはハーモニーと対位法について相当な知識をもっていた。
*訳注:ナディア・ブーランジェ:フランスの音楽家、教育者(1887〜1979年)。世界各国の著名音楽家(ディヌ・リパッティ、ダニエル・バレンボイム、レナード・バーンスタイン、フィリップ・グラス、クインシー・ジョーンズなど多数)を指導したことで知られる。妹のリリは作曲家(1893〜1918年)で将来を嘱望されていたが病気により夭折(24歳)。

マリオンはこの二人の姉妹がとても好きになった。英語を学びたいと思っていたナディアが、交換レッスンを提案した。「英語を教えてくれたら、ハーモニーを教える」 マリオンは大喜びした。ガルジャンヴィルですぐに英語の定期レッスンを開き、レニー・プーニョ、ナディアとリリ・ブーランジェ姉妹が生徒となった。

刺激的な夏を過ごした後、バウアーは秋と冬をパリで過ごした。これまでにないほど、そこで懸命に勉強を続けた。教師の中にパリ在住のアメリカ人、キャンベル・ティプトンと、アンサンブルの授業をマリオンに授けたピエール・モントゥーがいた。

アメリカに帰った1907年、バウアーは最初の歌曲を出版した。バーディロンの詩「夜は千の目を持つ」に書いたもので「光」という曲だった。オペラ歌手のシューマン=ハインクがこの歌を紹介し、自分のコンサートでしばしば歌った。

ニューヨークでのその後の4年間、バウアーは教えること、学ぶこと、作曲することの三つに時間を割り振った。ユージン・ヘフィに教えを受け、ウォルター・ヘンリー・ロスウェル(家族の一員のような近しい付き合いだった)からは解決すべき「音楽的問題」を与えられ、その手助けを受けた。

「あなたには才能がある。しかし必要とされる基礎が足りない。外部からのあらゆる雑念を退けて、対位法と作曲の基礎を固めることに集中するんだ」 ロスウェルはそう助言した。

ロスウェルの提案で、そしていつも最大の支援をしてくれる姉のエミリー・フランシスの助けで(またそれ以外の家族の支援もあって)、バウアーはベルリンに行き、そこでパウル・エルテル博士の元で学ぶことになった。これはバウアーにとって貴重な体験となった。ドイツではアメリカの作曲家に対する、中でも女性作曲家への偏見があった。1911年のヨーロッパ人は、アメリカは音楽において遅れた国であり、表現においての独自性に欠けていると見ているところがあった。

バウアーはこの態度に憤りを感じた。アメリカ国内で、外国の影響に対する反発が大きくなっていることをバウアーは感じていたし、アメリカ自らを表す方向に音楽は向かっていると思っていた。ヨーロッパの焼き直しではないものを目指していたはずだった。当時20代前半だったバウアーは、この新しい潮流に参加したいと思っていた。また他の芸術と同様、音楽において女性が力を示せることを証明したかった。

ベルリンを離れる前に、バウアーは歌曲による内輪のコンサートを開いた。他の作品と同様に、ここで歌われた歌曲は、男性的と普通言われるような雄大さと活力を備えていた。著名な音楽評論家のウィリアム・ヘンダーソンは、バウアーの室内楽曲について後に次のように書いた。

バウアーの弦楽四重奏曲を聴いて、女性と男性の知性の差をあれこれ言い立てる人々が、それを主張することに難しさを感じたに違いない。「女性らしさに満ちた作品」ではまったくないのだ。このことは礼儀を欠き、下品だということを言っているのではなく、堂々と振る舞う、冒険心ある男の子女の子が見せるような自信にあふれた態度を指しているだけだ。

バウアーの初期の歌曲は、印象派のスタイルが強く出ていた。ドイツ留学にもかかわらず、フランスからの影響を受けていることを示していた。これは驚くべきことではなく、祖先がフランス人であり、彼女が子ども時代から心を傾けたのはフランスの初期の「近代派」だったのだから。

1912年、バウアーはアメリカに戻った、そこで落ち着くつもりだった。帰国してすぐ、バウアーは音楽出版をするアーサー・P・シュミットと出会った。シュミットは生涯を通じて、アメリカの作曲家を励まし続けた人である。シュミットはバウアーの歌曲を気に入ったので、7年の契約を結んだ。彼がバウアーのピアノ作品『三つの印象』を出版したとき、バウアーは「この人は若い作曲家を励ますためにそうしたのではないか」と疑っていた。というのも、この作品は近代的で「異質なもの」だったから。シュミットは、バウアーに幸運をもたらした強力な支援者の一人であることを証明した。この時期、それ以外の友人として、卓越した作曲家、チャールズ・グリフェスがいた。バウアーの作品への批評や現代音楽についての議論は、バウアーにとって貴重なものとなった。

最初の頃、バウアーは主に歌曲を、次にピアノ曲を、それから室内楽曲を書いた。著名なバイオリン奏者で友人のモード・パウエルのために、バウアーはバイオリンとピアノのための音詩を作曲した。この曲は、バウエルがオクラワハ川(フロリダ州)を旅したときの絵画的な描写から発想されたものだった。

名高いボストンの作曲家、アーサー・フットは『オクラワハ川を上る』を聞いてこう言った。「私がこれまでに聞いた中で最も素晴らしい描写音楽だ」

1921年、バウアーはアメリカン・ギルドのメンバーになった。これにより、他の作曲家と出会う機会をもった。そして自分の音楽を計るための基準を手にした。バウアーは当時、自分に必要な能力がまだ欠けてはいるものの、もっと大きな形式の音楽をつくる道に進む基礎はできていると思っていた。

姉のエミリー・フランシスは妹に誇りをもっていたが、さらなる勉強が必要とも感じていた。もっと大きな形式の作品、協奏曲や交響曲などのオーケストラ作品を書いて欲しかった。もし妹をもう2、3年フランスに送り込むことができるなら、彼女の才能の発揮は無限だと感じていた。

この最後の海外留学の間、バウアーは主としてパリ高等音楽院の教授で、ラヴェルやミヨー、オネゲルの師であったアンドレ・ジェダルジュのもとで学んだ。パリでバウアーは、後に『皇帝ジョーンズ』で有名になったルイス・グルーエンバーグと出会い、彼から貴重な批評や励ましを受けた。パリ滞在中に、バウアーは『弦楽四重奏曲』と、バイオリンとピアノのためのソナタ2番(後に『ソナタのようなファンタジア』として出版された)を書いた。

エミリー・フランシスの死後、マリオンは姉のやっていた『ミュージカル・リーダー』誌の編集と批評の仕事を受け継いだ。バウアーはしばしば姉のやっていた音楽批評に手を貸し、『ミュージカル・クォータリー』誌にも記事を書いていた(最初にバウアーが書いた記事は、ハロルド・バウアー*へのインタビュー記事だった)。後にバウアーは、『音楽の楽しみ方』の著者、エセル・ペイザーと『ピクトリアル・レビュー』誌で6回シリーズの記事を一緒に書く。1925年、バウアーはそのペイザーに一緒に本を書こうと提案した。
*ハロルド・バウアー:イギリス出身のピアニスト(1873〜1951年)

「いつかあなたと若い人たちのための音楽史を書いてみたい」 そう話した。

「それはいい考えね。でもどうしていつかなの、今書きましょう」 そうペイザーは答えた。

本はすぐに書き始められた。バウアーはちょうどパリを離れようとしていたときだったが、原稿が大西洋を行ったり来たりしつつ作業は続いた。

G・P・パトナズ・サンズがこの本のことを耳にすると、すぐさま二人に出版契約を申し出た。「それ以降、出版社を見つける苦労というもの知らない」とバウアーは言う。「わたしが書いた本はすべて、パトナムズが出してくれた」

これは驚くべきことではない。マリオン・バウアーは専門的な課題を明快に、わかりやすい言葉で表現する才能に恵まれていたから。『音楽はいかに発展したか』『時代を超えた音楽』(どちらもエセル・ペイザーとの共著)は、音楽史における貴重な著作となった。後にこの両著は増補改訂版が出されている。2つの共著を出した後に、バウアーは自身単独の本を2冊出している。『20世紀の音楽』と『音楽についての問いとクイズ』である。その後さらに近代和声についての本を執筆している。

*訳注:最晩年にエセル・ペイザーとの共著で『オペラはいかに発展したか:古代ギリシアから今日まで』を書いている(没後の1956年に出版された)。

最後のフランス留学から帰国してすぐに、バウアーはニューヨーク大学の教員に任命された。1930年以降、彼女はそこで准教授として、作曲と音楽の形式、分析を教え、音楽美学や音楽史の講義をしてきた。またジュリアード音楽院で教え、ジュリアードの夏季講座を担当し、カリフォルニアのミルズ・カレッジ、ピッツバーグのカーネギー工科大学、シンシナティ音楽院でも夏期講習をした。さらに毎年、ニューヨーク州シャトークワでも講義をもった。バウアーは作曲家連盟の理事として、またアメリカ作曲家連盟、アメリカ出版協会など数多くの団体の正会員となっている。

バウアーが多くの時間をとられる責任ある職務につきながら、音楽を書き続けてきたことは簡単には理解できない。しかしバウアーは創作に必要とされる鋭い知性と感受性に恵まれていただけではなく、並外れたバイタリティーがあり、意欲と実行能力にも長けていた。毎年、彼女は長々とある作品リストに新作を加えていった。

バウアーの音楽は四つの時期に分けられる。最初に歌曲があり、次にピアノ曲、そして室内楽があり、その後オーケストラ作品へと進出している。第4期には『交響的組曲』と『哀歌』(どちらも弦楽オーケストラのための楽曲)があり、音詩『太陽の輝き』、ピアノ協奏曲『アメリカの青春』、『オーケストラ』と続く。そして1951年には『交響曲第1番』を完成させた。劇場作品を二つ書いており、劇音楽(付随音楽)として『プロメテウス・バウンド』『パンとシリンクス』がある。『プロメテウス・バウンド』は1937年に書かれ、合唱作品としてウスター・フェスティバル合唱団とフィラデルフィア交響楽団によって1945年、ウスター・フェスティバルで演奏された。

バウアーの合唱曲の中に、オーケストラと混声合唱の大作がある。『中国』、そして『新年に』(テキスト:ケネス・パッチェン)、『死は優しい翼を広げる』(テキスト:ユーニス・P・クレイン)、『ボストンコモン公園に着陸した外国人』(テキスト:ホレス・グレゴリー)である。

室内楽は常にバウアーの興味の中心で、この形式で多くの楽曲を書いてきた。『オーボエ、クラリネット、弦楽四重奏のための小協奏曲』、二つの木管アンサンブルのための『図案と水彩画』。二つの『フルート、チェロ、ピアノのためのトリオ』(1944作と1951年作)、『フルートと弦楽器のためのプレリュードとフーガ』(1949年)、『オルガンのための瞑想とトッカータ』(1951年)などである。

バウアーの作品の多くはマクダウェル・コロニー(ニューハンプシャー州ピーターボロー)で夏の数ヶ月の間に書かれた。「マクダウェル夫人には深く感謝しています。美しく、静かで、刺激に満ちた素晴らしい環境の中で、他の作曲家や作家、画家たちと共に過ごすことのできる天国のような場所をつくってくれたこと、そのような素晴らしい機会と特権を与えてくれました」 バウアーはこのように言う。

コロニーでは、バウアーは作曲と音楽について書くことを交互に行なっていた。こちらからあちらへ、あちらからこちらへとインスピレーションを見つけていた。ある年、バウアーは「コロニーにいることの喜びから」到着の瞬間に大きな閃きを感じた。荷をとく間もおかず、コロニーの作曲家から五線譜を借りて、『前奏曲』を書きあげた。『ピアノのための六つの前奏曲』の最後の曲である。『ニューハンプシャーの森から』と題されたピアノのための三つの組曲は、コロニーの静かな夏の日々を思い起こさせる。『インディアンのパイプ』(気味の悪い、不思議で超越的な曲)、『松の木』(静かに、耳を澄まして)、『白樺』(この曲はコロニーの仲間であるウィリアム・ローズ・ベネットによる短い叙事詩が使われている)。

その秘密の輝きにはどんな意味があるのか
きらめきささやくその葉っぱには、どんな言葉があるのか
幽霊のような樺の木が月の光のもとで輝く……

マリオン・バウアーは初期の頃は、若手作曲家の中でも「超モダンな」作曲家として知られていた。しかし晩年、彼女の音楽から過激さは影をひそめた。それまでも伝統を捨てることを考えたことは一度もなかった。

1951年5月、ファイ・ベータ音楽友愛会(バウアーは国民名誉会員だった)が、ニューヨークのタウンホールで、彼女の全作品のプログラムによるコンサートを後援した。「わたしのキャリアを通じて、最大の出来事でした」と彼女は言う。その1ヶ月後、ニューヨーク音楽大学から名誉音楽博士号を受けた。そしてその年、25年間にわたるニューヨーク大学の現役教授職から引退した。

作曲家連盟のメンバーとして、教えたり講座をもち、また全国音楽クラブ連盟若手作曲家コンクール委員長として(1934~1947年)、バウアーはアメリカの若手作曲家の音楽に深く接してきた。バウアーは自分の仕事の最も重要な側面として、「未来への貢献」をあげている。マリオン・バウアーからの支援や刺激を体験した若い作曲家たちが、アメリカにはたくさんいる。

訳・編集:だいこくかずえ

訳注1:マクダウェル・コロニーは作曲家のエドワード・マクダウェルと妻のピアニスト、マリアンによって、1907年に創設された芸術家のための滞在プログラム。アーロン・コープランドのバレエ曲『アパラチアの春』(1944年)、ジェームズ・ボールドウィンの小説『ジョヴァンニの部屋』(1956年)、アリス・ウォーカーの小説『メリディアン』(1976年)など多くの優れた作品がここで制作された。夫の死後、マリアンは約25年間、このプログラムを率いた。現在もマクダウェル・コロニーは健在で、世界中から多くのアーティストがやって来て、ここで制作に励んでいる。バウアーに関するページには、当時彼女が仕事をしたスタジオ・キャビンが紹介されている。バウアーは1919年から1944年までの間に、20回レジデンスとしてここで仕事をしている。
*なお2020年8月以降、名称からコロニーが取られて「マクダウェル」に改められた。

↑ Sonata, Op. 22, viola or clarinet and piano (1932) / 2022・3曲・16分39秒

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【小評伝】 作曲する女たち(19世紀生まれ)
テキサスのカウガール:Radie Britain
歌が唯一の楽器だった:Mabel Daniels
初めての学校は子育ての後:Mary Howe
大合唱団を率いて:Gena branscombe
⓹ブーランジェ姉妹と交換教授:Marion Bauer

【インタビュー】 作曲する女たち(20世紀生まれ)
オーガスタ・リード・トーマス(作曲家かどうか、決めるのは自分)
ジェニファー・ヒグドン(ロックを聴いて育った)
タニア・レオン(世界を見たくてキューバを離れた)
ヴィヴィアン・ファイン(よくできた曲はあまり面白くない)
エレン・ターフィ・ツウィリッヒ(音楽には浅いレベル、深いレベル両方必要)


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