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【小評伝】 作曲する女たち(19世紀生まれ)  ⓸1000人の大合唱団を率いて:Gena branscombe

ジーナ・ブランスコム:1881年11月4日~1977年7月26日、オンタリオ(カナダ)生まれ
主な作品:『祝祭前奏曲』(1913)、『ファジャールの踊り子』(1926)、『運命の巡礼者たち』(1929)、『世界の若者たち』(1932)、『コベントリーの合唱曲』(1944)
原典:"Modern Music-Makers: Contemporary American Composers"(1952)
by Madeleine Gossより訳・編集
記事末の訳注:1) 国連のセキュリティ・ホール(1946年当時)、2) マクダウェル・コロニー

このプロジェクトについて

オーケストラ曲とともに合唱曲を数多く作曲し、各地の合唱団の指揮をし、自身の名を冠した合唱団をもったブランスコム。女性クラブ総連合の創立50年記念式典では、アメリカ各地から集まった総計1000人の大合唱団によるプログラムを企画し、参加する各団体を精緻に指導し、舞台で指揮棒を振り大成功を収めました。(訳者)

ジーナ・ブランスコムが広く知られるようになったのは、主に合唱曲を通してだった。50曲近い合唱曲を書いており、その多くはフルオーケストラの伴奏付きである。また他の作曲家の作品の編曲や採譜もしてきた。ブランスコムの作品は国内外で広く演奏され、アメリカ国内において決して小さくはない影響を与えている。

ブランスコムは指揮者としても知られるが、キャリアの初期には指揮者になるつもりはなかった。「指揮をやるようになったのは、必要だったから」と彼女は言う。多くの合唱曲を作曲したことで、自分の作品の指揮が求められていた。それでブランスコムはニューヨーク大学で、ウォーレン・エルブのクラスに入って指揮を学ぶことにした。さらにアメリカ管弦楽協会のメンバーとして、フランク・ダムロッシュとチャルマーズ・クリフトンからも学んだ。

この国では女性指揮者にあまり機会はない。いくつかの女性交響楽団をのぞけば、ブランスコムは多くの交響楽団で客演指揮者として働いた。その間に、合唱指導や合唱曲の作曲において、女性に大きな可能性が開かれていると感じた。アメリカ国内のあらゆる場所で、同好会や教会、社会団体の大小の合唱団が、演奏プログラムとして、常に新しい作品を求めていた。

ブランスコムはやがて、合唱団や女性管弦楽団の指導者として、多忙なスケジュールをこなすようになる。女性クラブ総連合がアトランティック市で創立記念式典を開いたとき、ブランスコムは終演コンサートの大合唱団の指揮者に選出された。

この祝典クライマックスの舞台には1000人の女性が集結し、観客席には5000人の聴衆がいた。アメリカ各地からやって来た女性たちが、50年間の女性合唱団の功績に敬意を表した出来事だった。巨大な合唱団というのは見事な光景である。合唱団の歌い手たち自身もこの大きさに感動していた。合同リハーサルはなかったものの、個々の合唱団が完璧に訓練されていたので、全員が合わせたとき、互いをよく知る小さな合唱団のように繊細で統制された演奏が実現した。彼らの歌声は見事に混ざり合い結晶し、高い質を生み出した。ピアニッシモの部分は天上の響きのようだった。

アトランティック市でのユニークな演奏は、大合唱団の演奏を計画し、その指揮をとるリーダーとして選ばれた卓越した女性、ブランスコムに負うところが大きかった。コンサートのずっと前に、ブランスコムは参加する各地の合唱団に、詳細にわたる指示書を送っていた。それによりテンポ、息継ぎ、フレージングや曲の解釈に至るまでのすべてが、どの合唱団にも行き渡っていた。ブランスコムのプログラムは、アメリカの女性作曲家による作品が中心だった。祝典はハイドンとモーツァルトの演奏で幕を閉じ、ヘンデルの『ハレルヤ』の合唱に聴衆はすっかり心を奪われた。

ジーナ・ブランスコムはアメリカ国境を超えてすぐのオンタリオで生まれた。とはいえアメリカ開拓者の子孫であり、彼女の一族は1640年にニューヨーク(当時のニュー・アムステルダム)に上陸した。読み書きができるかできないかのときに、ブランスコムはピアノで曲を作りはじめていた。まだ5歳の頃に、「いとこと叔母さん」と名づけた音楽ゲームを発明した。これは彼女独自の特性がよく現れたハーモニーへの冒険となった。やがてブランスコムは「いとこと叔母さん」を組み込んだ小さな作品を書くようになった。

高校を15歳で卒業すると、すぐに彼女はシカゴに送られ、そこで牧師をする兄と暮らすようになる。ブランスコムはシカゴ音楽大学で奨学金を得て、ルドルフ・ガンツにピアノを師事した。また7年間に渡ってフェリックス・ボロウスキに作曲を学ぶ。そこで彼女は2回、作曲で金メダルを受賞している。卒業後、ブランスコムはしばらくの間、母校で教え、ワシントンのウィットマン大学ではピアノ学科の主任を2年間務めた。そしてその後ベルリンに渡った。

第一次世界大戦前のドイツでの音楽修業は、心躍るやりがいのある体験だった。音楽家になりたいという者にとってはなおさらのこと。一流の音楽家たちはみな、ベルリンを訪れた。毎日のように歌曲とオーケストラのコンサートがあり、ヨーロッパ随一の(ウィーンを除けば)オペラが上演されていた。当時最も人気のあったオペラはフンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』だった。フンパーディンクはベルリンで最も優れた教師の一人と考えられていた。彼の生徒として受け入れられると、ブランスコムは運に恵まれたと思った。フンパーディンクの元でオーケストレーションと作曲を学んだ。しかし1年後に、ある事情から故郷に引き戻されることになった。アメリカに戻ったブランスコムは、ニューヨーク在住の弁護士、ジョン・ファーガソン・テニーと結婚した。

そこからの数年間は、家事や3人の小さな娘の世話で手一杯だったが、それでも作曲は続けた。ブランスコムの最初の重要な作品であるオーケストラのための『祝祭前奏曲』は、1913年、マクダウェル・コロニー*(ニューハンプシャー)のサマーコンサートのために書かれた。後にニューヨークとサンフランシスコでも演奏された。『ケベック』は1928年に書かれた管弦楽組曲で、ブランスコムはシカゴ女性管弦楽団をはじめとする多くのグループで指揮をした。フルオーケストラのための『エレジー』は1937年に、『ジョワユーズ』は1941年に完成した。ブランスコムは室内管弦楽の作品も書いており、『カエデ』『バラダイン』『行列』などがある。また室内楽の作品もいくつかあり、よく知られている弦楽器とフルート、ハープ、ピアノのための『カーニバル・ファンタジー』、木管楽器とソプラノのための『翡翠のリュート』、バイオリンとピアノのための『ソナタ』、そして『行列』のトランペットとオルガン、ピアノへの編曲作品、さらに非常にたくさんの歌曲などがある。歌曲は100曲以上出版されており、その中にはよく知られた『クリスマスの歌』『朝の風』『裏門にて』『幸せ』『エーゲ海を超えて』『クリシュナ』などがある。ブランスコムは他の作曲家(バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、サン=サーンス、ドビュッシーなど)の作品を合唱曲に編曲している。その多くの作品で、彼女は合唱のためのテキストを書いたり翻訳を行なっている。

ブランスコムの最初の重要な合唱曲は、女性コーラスとソプラノ、アルトのソロ、オーケストラ伴奏付きのカンタータで、音楽に加えてテキストも書いた(『ファジャールの踊り子』)。二つ目は同じく1926年に作曲された、ケンドール・バニングのテキストによる男声合唱とオーケストラのための『幻の隊商』である。

ブランスコムは歴史にいつも深い興味をもってきた。中でも男たちの勇敢さと信念を表す、ドラマチックな時代を超えてアピールする出来事に対して。いくつかの作品は歴史的な出来事をうまく捉え、音楽的効果の高いものに仕上げている。ブランスコムはある歴史的事件をテーマにしたオペラに、数年間集中的に取り組み、それは『The Bells of Circumstance』に結実した。これまでの合唱曲、歌曲、編曲作品と同様、この作品でも自身でテキストを書いた。オーケストラ組曲『ケベック』はこのオペラから引き出されたものだ。

『運命の巡礼者たち』(ブランスコムの野心的な作品の一つ)、これも歴史的な出来事を題材にした作品である。これは独唱とオーケストラと合唱のための1時間15分の作品。「詩的で、美しい旋律によるメイフラワー号の航海記」とニューヨーク・タイムズは記した。新大陸を目にする前日のメイフラワー号での船上生活を描いた作品である。これは1929年、2年に1度の全国音楽クラブの最後の出し物として、プリマスで初演された。作品は二つの賞を授与され、ブランスコムは名誉学位を授けられた。
*訳注:初演はマサチューセッツ州プリマスで、名誉学位はイギリスのプリマス大学から受けたと思われる。メイフラワー号はプリマス港を出発し、東海岸のプリマスに到着した。

ドラマチックな中に美しい旋律と豊かな響きがあり、詩的で抒情性あふれるスコアは作曲家自らの手により最高の演奏となった。『運命の巡礼者たち』はアメリカの歴史を雄弁に、感動的に語った音楽作品と言える。

『世界の若者たち』は1932年に書かれたもう一つの精緻な作品で、ブランスコムの最も人気のある楽曲の一つである。ブランスコムはこの曲を国内いたるところで指揮し、ロンドンに招かれてそこで監督もした。この作品は心からの「世界の平和*」を願った作品である。「永遠の平和のための感動的な祈り」と呼ばれた。

第二次世界大戦のとき、ブランスコムは英国はコベントリーで起きた聖ミカエル大聖堂の爆撃を描いたバイオレット・アルバレスの詩を読んで、心動かされた。このとき、ゴシック様式の大塔を除いて教会は全壊した。そのままの形で残された塔は、英国が耐えた強さのシンボルとして、残された人々が集まって歌い祈る場所となった。ブランスコムはこの作品を「英国の人々の暗黒の時代の試練に対する不屈の精神」への賛歌として書いた、と言う。『コベントリーの合唱曲』(4部女性合唱と独唱)と呼ばれ、ブランスコムが最も気に入っている作品である。1944年5月2日、タウンホールで初演され、ブランスコムは自分の合唱団を指揮した。

ブランスコムの女性合唱団はニューヨーク市の周辺で名声を得てきた。合唱団はアン・モーガン主催のアメリカ女性協会と関係する小さなグループとして出発した。協会が合唱団の解散を決めたとき、団員たちがブランスコムの元で続けられないだろうかと相談した。ブランスコムがこれを引き受け、以来、合唱団は75名のメンバーを抱えるまでに発展した。当時ブランスコム合唱団として知られ、毎年、タウンホールでコンサートを開き、演奏はラジオでも放送された。シーズンの前半のプログラムは、16世紀のイタリアの作曲家パレストリーナから現代作家に至る典礼作品に費やされ、後半は世俗的な楽曲を演奏している。

ブランスコムはプログラムに常にアメリカの作曲家の作品を入れている。1946年12月20日、ニューヨーク州レイク・サクセスのセキュリティ・ホール*で、国際連合事務局を前に、「様々な土地のキャロル」というクリスマス・プログラムでブランスコム合唱団を指揮した。この歴史的な場所で、クリスマス音楽を歌った最初の団体として、世界の歴史に刻まれた。

音楽家としての人生を通じて、ブランスコムは、妻として母としても同時に生きた。3人の娘たちはみな、頭角を現している。長女のジーナ(母親の名を受け継いだ)は、バーナード・カレッジで学部学生フェローシップを受け、さらにアメリカ人留学生として初めて、ロンドン王立大学の作曲科でフォリ奨学金を受けている。次女のヴィヴィアンはコーネル大学で医学博士号をとり、三女のベアトリスはバーナード・カレッジで素晴らしい成績を残した。

「家庭をもち、夫と子どもに恵まれて、女性として豊かな人生を送れた」とブランスコムは言う。「とはいえ、音楽という光り輝くものに手を貸し、愛し、世界の一部となって働くことは、大きな充実感を与えてくれました」

訳・編集:だいこくかずえ


訳注1:国連のセキュリティ・ホール(1946年当時)は、レイク・サクセス(ニューヨーク州)のマーカス通りにある国連(UN)の仮本拠地の中にあった。1946年5月から1947年1月までの間、国連の本拠地となった。第二次世界大戦後の世界平和に対する歴史的な誓約が行なわれた場所と思われる。

訳注2:マクダウェル・コロニーは作曲家のエドワード・マクダウェルと妻のピアニスト、マリアンによって、1907年に創設された芸術家のための滞在プログラム。アーロン・コープランドのバレエ曲『アパラチアの春』(1944年)、ジェームズ・ボールドウィンの小説『ジョヴァンニの部屋』(1956年)、アリス・ウォーカーの小説『メリディアン』(1976年)など多くの優れた作品がここで制作された。夫の死後、マリアンは約25年間、このプログラムを率いた。現在もマクダウェル・コロニーは健在で、世界中から多くのアーティストがやって来て、ここで制作に励んでいる。ブランスコムに関するページには、当時彼女が仕事をしたスタジオ・キャビンが紹介されている。
*なお2020年8月以降、名称からコロニーが取られて「マクダウェル」に改められた。

訳注3「世界の平和」:これはブランスコムに限ったことではないが、19世紀に生まれ、20世紀を仕事の場としたアメリカ人作曲家は、平和を願う人間であっても、女性であったとしても、今の時代から見ると無邪気に愛国的であり、西洋諸国の世界支配に肯定的(あるいは無意識)である。その視野にあるのはアメリカでありヨーロッパであり、その他の地域には考えが及んでいないように見える。一つの時代にしか生きられない一個人の限界ということか。

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【小評伝】 作曲する女たち(19世紀生まれ)
テキサスのカウガール:Radie Britain
歌が唯一の楽器だった:Mabel Daniels
初めての学校は子育ての後:Mary Howe
⓸大合唱団を率いて:Gena branscombe
ブーランジェと交換教授:Marion Bauer

【インタビュー】 作曲する女たち(20世紀生まれ)
オーガスタ・リード・トーマス(作曲家かどうか、決めるのは自分)
ジェニファー・ヒグドン(ロックを聴いて育った)
タニア・レオン(世界を見たくてキューバを離れた)
ヴィヴィアン・ファイン(よくできた曲はあまり面白くない)
エレン・ターフィ・ツウィリッヒ(音楽には浅いレベル、深いレベル両方必要)


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